全知全能とはどういうことか

(以下の文章もCS中高科奨励の原稿として書きましたが、内容的にちょっと過激すぎるので、ボツにしました。でも、面白いと思っているのでここにアップします)

 今朝も例によって、一言だけ覚えて帰ろう!シリーズでお話ししたいと思います。
 今朝の一言はルカによる福音書1章37節「神に出来ないことは何一つない」という言葉です。
 出来ないことは何一つない、全知全能で完全無欠の存在であるということは、一体、どういうことでしょうか。

 例えば、私たち人間は病気になったり怪我をしたりすることがありますが、神さまにはそういうことが出来るでしょうか。
 誰かにいじめられたり、裏切られたりすることは出来るでしょうか。
 誰かに愛を打ち明けて交際を申し込んだのに、断られる、なんてことはあるでしょうか。

 全知全能なのですから、病気や怪我になったら、イエス様が多くの病人を癒やしたように、たちどころに癒やしてしまうでしょう。
 誰かがいじめたり、裏切ったり、交際を断ったりしたら、直ちにふさわしい裁きを下すでしょう。

 では、死ぬことは出来るでしょうか。
 全知全能ならば、少なくともこの世の無限の始めから無限の終わりまで存在し続けるはずであり、まして人間ではなく神としての存在である以上、私達、人間にとっての死を経験することは出来ないはずです。

 だとすると、神には出来ないことがたくさんある、神は全知全能ではない、と言うことになります。

 しかも、そもそもよく考えるなら、もし、神が全知全能ならば、この世を作り、私達人間を作り出す必要すら無いでしょう。

 存在と不在の区別も、光と闇、善と悪の区別も無い、ただただどこまでも広がっているところに独りぼっちでいたって、全知全能の存在である限り、特に寂しい気持ちになることもない筈です。

 冬の北海道の田舎に行くと、地平線まで雪に覆われた真っ白な大地に独りぼっち、という経験をすることがありますが、例えば、そういう存在だということですね。

 そういう真っ白な大地に、吹雪がやってくると、上下左右の区別も分らない、ホワイトアウトという状態になって、命の危険を覚悟するような状況になりますが、そういう中に、死ぬことも出来ずに永遠に独りぼっち、それが全知全能の存在であるということです。

 しかし、ここに私達と私達の世界が厳然と存在*しているということは、どういうことか。

 それは、どう考えても、神は全知全能で完全無欠な存在であることをいったんお休みにして、自らを不完全な存在とし、そのお姿に似せて私達をお作りになったんだ、という理解になります。

 天地創造の7日目に神が安息されたと言うことの意味を、私はそう理解しています。

 しかし、神はいつまでも休んでいるわけには行かなくなったんです。

 なぜなら、自らの愛の対象、かけがいの無い大切な被造物としてお作りなった人間たちが、互いに殺し合ったり、奪い合ったり、やがて他の被造物を滅ぼすことまで始めたからです。

 そのような事態に直面した神が再び全知全能の存在に立ち返って私達のあいだにお立ちになることは出来るでしょうか。

 もちろん、おできになりますが、それは神が自らお作りになったこの世界と私達人間にとっては「終末」という事態でしかあり得ないでしょう。

 しかし、それでは結果として、神が自らお作りなった世界を自ら滅ぼすことになってしまうので、本当は全知全能ではなかったという結果になってしまうでしょう。

 そこで神さまは終末という裁きによらずに、世界と人間を救うために、貧しいマリアとヨセフという若い二人を用いて、神の大切なひとり子をナザレのイエスとしてこの世にお送りになるという、いわば最終手段に出られました。

 聖書を読むと、このイエスという青年は、飢え渇き、病や苦しみ、裏切りや搾取をつぶさに語っていて、おそらく彼自身、そういう全知全能の神には絶対に経験できない、人間の苦労をことごとく体験し見聞したんだと思います。

 そして、神の子として多くの癒やしや赦し、復活の奇跡を行ってたくさんの人々を救ったのに、不当な裁判で無実の罪を着せられて死刑にされました。

 全知全能の神には絶対に経験できないそうした苦しみを自らに引き受けることによって、父なる神の全知全能を子なるキリストが完成させた、それが十字架のイエスなのです。

 つまり、キリスト・イエスの十字架こそが、「神に出来ないことは何一つ無い」という、神の全知全能が完成したということであり、その完成が私達にもたらしたのは「裁き」ではなく、「赦し」や「救い」という神が私達に寄せる熱い思いだった、ということです。

 しかし、十字架によって与えられた赦しとは、また、救いとは、私達にとって、具体的にはどういうことでしょうか。

 それは十字架で死んだナザレの青年イエスが、救い主イエスとして復活したて、私達の永遠の命の初穂となられた、ということであり、私達もまた全知全能の神の似姿として、完全な存在に作り替えられた、ということですが、その説明は、今朝はあえてしません。

 一つには時間が長くなったからですが、それ以上に、寒くて暗い冬が終わった来年の春、復活祭の時に牧師先生が詳しく説明してくださるだろうと思うからです。

 その代わり、イザヤ書43章7節の次の言葉を読みたいと思います。

「彼らは皆、わたしの名によって呼ばれる者。わたしの栄光のために創造し/形づくり、完成した者。」

 今日の私の話は、この一言に尽きるのかもしれません。

 まず、私達一人一人はもとより、この世に存在するすべてのもの、海も山も空も、それらすべては神さまが、その全知全能を危険にさらしてでも作り出そうとした大切な存在であるということ、そのことを覚えて帰ってください。

 そのうえで、どんなに苦しいときも悲しいときも、イエス様によって全知全能を回復された神さまの無限の愛が私達一人一人から離れない、そのことを忘れないように、「神におできにならないことは何一つ無い」という言葉を、今朝、記憶に刻み込んで帰ってください。

*この世界と自分の存在は幻影に過ぎないとするプラトンのイデア論やこれを体系化したアリストテレスの四原因説も古代ギリシャには広く行われており、これをもとに初代教会においてキリストの受肉を否定する主張も行われましたが、神の全知全能を否定しないなら、そのような理解に逢着することは避けられないでしょう。理性が、その本質から、矛盾を許容しない以上、両方の顔を立てることはできないのです。Cf,グノーシス主義

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