教会のダブル・スタンダート


1 初代教会のダブル・スタンダード

 使徒言行録21:20-25には、パウロ捕縛のきっかけを作ったエルサレム教会の長老たちの指示が書き残されています。
 この指示をよく読むと、律法についての初代教会のダブル・スタンダード(以下「2重基準」)があることに気がつきます。
 20節から24節では、ユダヤ人キリスト者が律法を遵守すべきことを述べています(以下「基準A」)。
 一方、25節では、異邦人キリスト者には、律法ではなく、教会の定めた簡易なルールを遵守することを求めています(以下「基準B」)。
 さすがに長老たちもこの2重基準には気がついていたようで、22節の冒頭では当惑の様子が示されていますが、しかし、最終的には神殿における宗教儀礼を行うように指示しています。
 また、かつて異邦人に対する律法遵守の要求を厳しく撥ね付けたパウロ(使徒言行録15章)も、この2重基準に基づいた指示に、素直に従っています。
 おそらくは、上述の使徒会議の時点で、すでにこのような2重基準があったのだと思いますし、だからこそ、パウロも慫慂としてこの指示に従ったのでしょう。
そのように考えると、使徒16:1の記録も理解出来るし、パウロ書簡における論述の混乱ぶりも、この2重基準を踏まえて読むと分かりやすいのです。


2 2重基準でロマ書を読む

 ロマ書はわかりにくい文書として有名ですが、例えばその7章を上の2重基準で仕分けながら読むと意外にスッキリします。
 例えば以下のような読み方です。
 6節:「私たち」は異邦人であり基準Bを擁護。
 7節:基準Aを擁護。
 8~11節:「むさぼり」や「掟」という新概念を導入して基準Bを擁護。
 12節:前節の論旨に反して突然、基準Aを擁護。
 13~14節:論点を「罪」にすり替えて基準Aを擁護。
 15節:基準Bを否定してしまったパウロは、混乱の挙げ句、「自分のしていることは分からない」と告白。
 キリがないのでこのくらいにしますが、こういうコンニャク問答の中から、パウロが預言的な言葉に導かれていく(ただし、2重基準は解消されない)様子がもたらす感動こそが、ロマ書の魅力であり神髄なんだと思います。


3 2重基準に目を閉じない

 2重基準なんか、ないにこしたことはありませんが、しかし、2重基準を否定することは、罪のない人しか教会に受け入れないと主張することと同じです。
 そもそも教会の歴史を振り返ったときに、2重基準を抱えていなかった時代などあったでしょうか。
 例えば、礼拝の前に皇居遙拝を行っていた戦前の教会が、戦後、米軍の反共政策の力を借りて復興した姿を私たちは知っています。
 むしろ、問題は2重基準に目をつぶることです。
 パウロがコンニャク問答で2重基準を擁護しようとしたように、私たちも、もっともらしい理屈をこねて、2重基準に目をつぶっているのではないか、ということです。
 それどころか余りにも長年にわたって目をつぶっていたせいで、目をつぶっていることすら忘れてしまっているのではないか。
 私たちの教会の中に、あるいは、地域や社会の中に、共に重荷を分かち担うべき兄弟姉妹がいるのに、口をつぐみ、目をそらす習慣がついてしまっているのではないか。
 しかし、そのような罪の闇の中にこそ、主の光は照り輝いてきたはずであり、その光に向けて目を開けて下さるよう、キリスト者は意識的に祈り願う必要があるのかもしれません。

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