日本基督教団議長のインタヴューについて



「しかし彼らはたちまち主の業を忘れ去り/その計らいを待たず
荒れ野で激しい欲望を起こし/砂漠で神を試みた。
主は彼らの願いをかなえたが/彼らの魂を痩せ衰えさせた。」
詩編106:13~15


 先日、キリスト新聞社のサイトに掲載された標記について、問題点を指摘する発言がツイッター上に散見されました(https://www.christianpress.jp/ishibashi-hideo/)。
 なるほど、酷い内容であるけれど、なぜ、こういうことが起こるのか、管見の限りで検討してみたいと思います。

 さる7月7日の記事でも書きましたが、人は必ず社会の中で生きていて、個人としての側面と社会の一員としての側面の間で両義性を抱えながら生きています。

 この両義性は、哲学史に寄り添って弁証法的な矛盾と言うことも出来そうですし、「すまじきものは宮仕え」という私自身の日常経験に寄り添うなら、対立的な対話と言っても良いでしょう。

 この両義性をどう乗り越えていくのかが、近代哲学の課題でしたが、第1次世界大戦の惨禍を経て、20世紀の哲学の課題は、両義性そのものをより丁寧に掘り下げていく営為と、むしろ両義性をどう生きるかを問う営為の二つの軸が、いわば二重らせんとなって歩みを進めてきています。

 その結果、異種格闘技の世界が世界統一王座の樹立を断念せざるをえなかったごとく、哲学の世界はフランスの構造主義やポストモダン、英米の分析哲学などの幾つかの潮流が相互に対話し、交流しつつ共存する状況になっています。

 一方、神学はどうでしょうか。

 神学は、古代の教父の時代から、他の宗教やその背後にある哲学、様々な思考の方法論を排除し続けてきました。

 例えていうなら、哲学の歴史が、様々な異種格闘家がリングにどんどん上がってきたバトルロワイヤルの歴史である一方、神学は神学の専門家だけの金網デスマッチであり続けたということです。

 開放的なリングに勝手に上がってきた格闘家が、どんな卑怯な凶器を持ち込んでこようともリングがオープンである以上、それら凶器の持ち込みを禁止しても意味がないし、それゆえ、新たに持ち込まれた凶器に、その都度、がむしゃらに向き合ってきたのが哲学の歴史でした。

 一方、神学のほうは、リングの外からなにかを持ち込ませないために、金網で囲ったのであって、登場した格闘家に凶器持ち込みの疑いが生ずる都度、試合を中止してその格闘家を引きずり出すことに忙殺されてきました。*

 現実には、例えばアウグスティヌスの思想には、古代ギリシャ哲学がローマ法学を経由して流れ込んでいますし、啓蒙の時代以降は近代的な自然科学の手法が流れ込んできているのは見れば明らかなのに、神学はあくまでも金網の中に閉じこもってきました。

 その理由は、たくさんあるでしょう。

 例えば、神学校が神学の研究機関であるよりは初年兵の訓練期間としての機能が強く期待されてきたこと、カソリック教会のような大きな組織は言うに及ばず、日本基督教団のようなささやかな組織であっても、そこに必ずや生まれる「伏魔殿」**に奉仕することが要請されてきたことなど、色々と挙げられるでしょう。

 しかし、神学それ自体に内在する問題、つまり、金網デスマッチという在り方そのもの、その閉鎖性が2000年に渡る教会の罪の温床だったことは明らかです。

 その閉鎖性のゆえに神学は、人が社会の桎梏に苦しみつつも、社会なしでは生きていけないという両義性から常に目を背け続け、社会か、個人かという二つの軸の間を揺れ続け、そこにあるべき霊的な止揚の追求をおざなりにする組織風土を生んだこと、そこにこそ問題の核心があるのです。

 冒頭の発言を批判するツイッター発言と同時期に、ある方からユダヤ教の研究者の方がキリスト教を的確に理解している、という趣旨の発言があり、私もその通りだと思いました。

 実際、私が最近心引かれているA.シュラキはキリスト教、ユダヤ教、イスラム教に通暁し、これら宗教の対話の実現に奔走した研究者でしたが、彼のキリスト教理解には強く首肯させられるところがたくさんあります。

 どんな学問もある段階に達すると、その学問の垣根を自ら乗り越えていかなければ生き残っていけません。

 古代の自由7科目のうち生き残っている学問を数えてみれば、そんなことは明らかです。

 だから、ひょっとすると神学という学問は、実際には自ら築き上げた金網の中で、すでに事切れて腐臭を放っているかもしれません。

 神学のそうした歴史と現状を直視することなく、2000年来の金網の中に閉じこもっている限り、石橋発言のような事態を解消することは絶対にできないと思います。

*「中世思想原典集成 精選6 大学の世紀2 (平凡社ライブラリー) - 上智大学中世思想研究所
中世思想原典集成 精選6 大学の世紀2 (平凡社ライブラリー) - 上智大学中世思想研究所」が出版されたおかげで、私のような素人でも、神学から哲学を排除しようとした「1277年の禁令」が手軽に読めるようになりました。図書館などで手に取ってみていただきたいと思います。

**かつてある大企業の人事の方が「企業にはどこも必ず伏魔殿があるんです」・・・としみじみ仰ったものです。

 

 

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