テレビを見るとバカになる?


 子どもの頃にそんなことを聞かされたせいではないと思いますが、高校生の頃からだんだんとテレビから遠ざかり始め、今ではテレビを一切見なくなりました。
 だから、NHKの受信料を節約し、部屋を広く使うために、テレビを捨ててしまいたいくらいなのですが、家内が反対するので辛抱しているというのが我が家の現状です。
 もちろん、テレビを見ない結果、賢くなったという事実は一切ないのですが、このごろになって、テレビを見ないというのは一つの生き方であり、その生き方が教えてくれたことがある、と気がついてきました。
 それは、人間の目には絶対に見えないナニモノかがこの世界にはあるのに、目に見えるモノに囲まれ、さらにテレビの画面を通してそうしたモノが押し寄せてくればくるほど、目に見えないモノの存在を忘れてしまう、ということです。
 つまり、テレビを見るとバカになる、ということの本当の意味は、私達、晴眼者*にとってすべてが可視的で可触的な日常の中で、すべてを見ることが出来る、それどころか目に見ないものなんかない、という錯覚に囚われてしまう、ということなのです。
 
 あるいは、こういう言い方も出来るかもしれません。
 私達は、問いがあれば必ず答えを求めてしまいますし、むしろ、答えのない問いに耐えられない、と言った方がより正確かもしれません。
 そうした、私達に目に見える情報が押し寄せれば、その量に正比例して、私達の問いは大きくなるでしょうが、しかし、私達がその答えを一つ一つ見出すことは、現実的には不可能でしょう。
 ならば、答えのない大量の問いに私達が耐えられるのか、というとそれも不可能です。
 その結果は他人が送りつけた大量の問いとセットになった他人の答えを自らの答えと錯覚することしかできなくなる、ということでしょう。
 そして、もっと恐ろしいのは、目に見えないナニモノかの存在を私達に知らせる、絶対に答えのない問いがそこにあるのに、情報の送り手がセットにして送りつけてくる誤った答えを自分の答えにしてしまって、目に見えないナニモノかを発見し、凝視するチャンスをどんどん失っていく、ということなのです。

 だからもし、許されるなら、敬愛する友人すべてにテレビなんか見ない方が良い、とお奨めしたいのです。
 それは、テレビを見るとバカになるから、ではありません。
 私達は、答えのない問いに耐えられないからこそ、目に見えないナニモノか、すなわち神を求め続けるのです。
 そして、神はそうした問いに答える義務を負っていないし、人の言葉で叙述できるような存在ではないからこそ、「わたしはある」(出エジプト3:14)つまり「私は私だ」としかお答えにならないのです。
 なのに、テレビを見ていると、神という問いにも必ず答えがある、という錯覚から脱することが出来なくなりますし、挙げ句には、神は○○であると軽々に述定したい衝動に陥るのです。

 まず、テレビを見るのを止めて、神の問いを受け止めなければならない。
 「あなたたちは、いつまでどっちつかずに迷っているのか」(王上18:21) という、言葉では答えられない、ましてビット列に変換不能の、生き方でしか答えられない問いに。
 そして、真の神に向き合えば、答えは自ずと一つである、という唯一確実な信仰の現実に。

*内田百閒のエッセイにあった、盲目の音楽家、宮城道雄が「目が見えるってのは不自由なものですね」と言ったという話を思い出します。

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 0

この記事へのコメント