ポール・リクール「愛と正義」の示唆するもの


 ポール・リクールは、神の真理は、ある極端から別の極端の間に量子論的に偏在するものである、と考えているように思われます。

 彼はギリシャ語とヘブライ語の構造の違いに注目します。
 つまり、ギリシャ語や英語、フランス語のような繋辞(be動詞やêtre動詞)、つまり主語の存在と属性の両方を示す繋辞を持つ言語がある一方、ヘブライ語や中国語や日本語のように、そのような繋辞を持たない言語がある。
 その結果、「私はある!」という言葉が違和感なく受け入れられる後者の言語による理解と異なり、繋辞が当然に述語を伴う言語に基づく理解では、神が真理であるなら、その姿は、当然に、一つ、あるいは複数の述語によって記述されるものであることが、暗黙に要請される。
 その結果、真理は主語と述語の構築物、論理の体系の中に追求されることになり、一定の範囲の中に確率論的に偏在するという理解は退けられる、と言うことになります。
 しかし、真理が論理的な追求を免れ続けるなら、これを語るためには詩や物語、警句によるしかないだろう、というのがリクールの主張であり、なるほど神がなぜ聖書によって真理を啓示しようとしたのか、を説明できるし、聖書を読むことの真の意義も理解出来るということです。

 ついでに備忘のために書いておきます。

 「神はサイコロを振らない」とハイゼンベルクの量子力学を批判したのはアインシュタイン。
 彼らの論争に割って入るつもりは毛頭ないのですが、彼らの見解にかかわらず、サイコロを振る自由は神に留保されています。
 だからこそ、私達は神の振るサイコロによって与えられる罪の報いを祝福に変えるために道具を生み出したのだ、というのが12世紀の神学者、サン・ヴィクトルのユーグの主張でした。
 しかし、私達が20世紀に産み出した道具は、報いを祝福に変えるどころか、呪いに変えた上でさらに増幅し、拡散していくものになってしまいました。

 神が進歩と論理の塔の頂点に立つものか、祈願と異議申し立ての物語に中に織りなされるものであるのか、22世紀を展望する上でリクールの主張は私達の思想と信仰に大きな転換を迫るものだと思います。

愛と正義: ボール・リクール聖書論集2 (ポール・リクール聖書論集 2) - ポール リクール, Ricoeur,Paul, 博, 久米, 文, 小野, 玲子, 小林
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