愛は決して滅びない(9月8日CS中高科奨励原稿)


 今日は、ただ一言、この「愛は決して滅びない」(コリントの信徒への手紙一 13:8a)という言葉を憶えて帰って欲しいと思います。

 私たちが誰かを愛してしまったら、その人を永遠に、死ぬまで愛し続けると確信します。
 そして、結婚式になれば、牧師先生の前で永遠の愛を誓います。
 それが「愛は決して滅びない」と言う真理の第1の意味、第1の姿です。

 しかし、いつの日か、その愛する人を失う時がやってくる。
 その時には、その人にしてしまった過去を思い、また、その人にしてあげたかった未来を思って、激しく嘆き悲しみます。
 それも「愛は決して滅びない」からです。
 もし、その人を墓に葬ったときに、愛も一緒に葬ることが出来るなら、私たちの嘆き悲しみもその時点で打ち切りになるでしょう。
 でも、そうはならない。
 なぜなら、「愛は決して滅びない」のであり、それがこの真理の第2の意味、第2の姿です。

 しかし、やがて、あるいはひょっとすると同時に、愛がそのような嘆き悲しみを修復し、癒やしの働きをしていることに気がつきます。
 その働きに何年かかるか分かりませんが、ある時点で私たちはその働きに突然、気がつくことになります。
 それが、「愛は決して滅びない」と言う真理の第3の意味、第3の姿です。

 皆さんがクリスチャンになるかどうか分かりませんが、クリスチャンになっても、ならなくても、「愛は決して滅びない」という、そのことこそ、この世界の真理であり、神秘です。
 だから、皆さんが長い人生を歩む中で、今朝の聖句、「愛は決して滅びない」という言葉を思い出して喜ぶ日、あるいは、嘆き悲しむ日が必ずやってきます。

 このことは理性や経験で証明できることではないし、個人的な体験を語っても人々は簡単には納得してくれないでしょう。
 しかし、それは、聖書66巻と、2000年にわたる歴代のクリスチャンの信仰の実践が発見し、確認してきた真理であり、神秘なのです。

 その教えるところに従うならば、
 「永遠の愛」という第1の姿は、父なる神さまです。
 「嘆き苦しむ愛」という第2の姿は、十字架の上の、子なるキリスト・イエスです。
 「修復し癒やす愛」という第3の姿は、終末の日まで私たちを守り導く聖霊の働きです。
 そして、それらすべての愛の姿が別々でありながら一(ひとつ)であるという神秘が三位一体の神の真理なのです。

 そのような、三位一体の神の愛はすべての人の上に注がれています。
 なぜならその愛は、くりかえし説明したとおり、「決して」滅びないからです。
 だから、クリスチャンにならなくったって、私たちはみんな神さまの愛に守られて生きていくことが出来ます。

 しかし、そのような神の愛に対して受動的に、他人事のようにして生きていくのか、主体的に向き合い、十字架を見上げながら生きていくのか、そのことだけは、私たち一人一人が、いつかは決心しなくてはいけないことです。
 具体的には、洗礼と聖餐のことを言っていますが、今、慌てて結論を出してほしいとは思っていません。
 ただ、今後、進学や卒業の節目には、とりわけ、誰かを真面目な気持ちで愛したときには、教会学校の先生や牧師先生に相談しながら、真剣に考えて欲しいと思います。

 その日に向けて、今朝は「愛は決して滅びない」という聖句を、しっかり憶えて帰ってください。

 祈ります。

【聖句の翻訳について】
 新改訳は同じ箇所を「愛は決して絶えることはありません」と訳しており、口語訳や文語訳も同様の訳となっています。一方、英訳や仏訳は新共同訳と同様に「滅びない」という訳となっています。私たちの教会では新共同訳を使っていますし、CSを訪れる子供たちが通っている学校も新共同訳を使っているので、特に考えることもなく新共同訳の訳文を用いました。私には、いずれの訳が適切なのかは分かりませんが、「滅びない」という訳は現時点から終末までの期間が視野に入ってくる印象である一方、「絶えることがない」という訳ならば創世から終末までの過去と未来を望見する印象になるように思います。今回は礼拝後の意見交換で、そうした訳文ごとの印象の違いについても簡単に意見交換をしてみました。

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