決意表明としての「洗礼」 2018年1月14日 CS中高科説教

【課題聖句 マタイによる福音書/ 03章 13~17節】

13そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。14ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」15しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。16イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。17そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。


 今日の聖書箇所はイエス様が洗礼をお受けになったところです。
 この箇所を通して、「洗礼」とは何かを考えていきたいと思いますが、ここでは難しい神学的な議論に突っ込まないように、少し違った視点からお話を始めたいと思います。


1 決意表明としての洗礼

 私やK姉、Y兄などは教会の役員の奉仕に用いられてもう何年にもなりますが、役員会のお仕事の一つに受洗を希望する方の試問、いわば面接試験のようなお仕事があります。
 実際には、ご本人からご決意に至るイキサツなどのお話しをいただいた後、当たり障りのないような質問や世間話をして、役員が全員でお祈りをするという形ですので、試問などといいつつ、実態はそんな恐ろしげなものではありません。
 ただ、教会によっては役員全員が、たとえば毎月の献金をしっかり出来ますか、とか、婦人会や青年会に加わってちゃんとご奉仕できますか、とか色々、質問ぜめにして、要するにその方の覚悟のほどを確かめるという、厳しい試問をされる教会もあるようです。
 まぁ、どんな試問のやり方が良いのかよく分かりませんが、逗子教会のような緩い試問をする教会も、どこかの厳しい試問をする教会も、口に出すか出さないかの違いだけで、洗礼を受けるからにはしっかりした覚悟を持って受けて欲しい、という思いにおいては共通していると思います。
 つまり、洗礼とは、「覚悟の表明」であり、「決意表明」であるということが最大公約数的な理解だと思います。


2 献身の意味を考える

 では、洗礼が決意表明であるとしたら、何の決意を表明するものでしょうか。
 こんな言い方をすると皆さん、ギョッとするかもしれないけれど、あえて分かりやすさを優先させて、こう言い切りたいと思います。
 すなわち、「洗礼」とは、「献身」の決意を表明することである、と(いったんは言っておきましょう)。
 その上で、「献身」の意味を丁寧に考えていきたいと思います。
 教会で「献身」というと狭い意味では、神学生になることを指します。
 例えば、ウチの教会ではS君が関西の某大学神学部で神学生として「献身」中である、だから奨学金を出しましょう、というような言い方をします。
 また、東京神学大学の後援会の会合にでると、東神大に献金することは、東神大の神学生であり「献身者」である人たちを支えるということです、だから、東神大に献金することも、大事で立派な「献身」ですのでどうかたくさん献金して下さい、というようなお話になります。
 あるいは、礼拝の席上献金をお捧げする時のお祈りでは、私たちの「献身」の印としてお捧げします、というお祈りをします。
 だとすれば、神様の御心にかなう様々な働きや、イエス様の体である教会に奉仕する働きも広い意味では「献身」といっても、良いかもしれません。
 このように考えると、「献身」という言葉の意味はごく狭い意味から非常に広い意味まで、大変、幅の広いものと考えられます。
 しかし、意味するところが幅広だと言うことは、その意味が曖昧であり、実態として何も意味しない、と言うことではありません。
 具体例を挙げると、話がそれていくので今はやめときますが、残念ながら、世の中には一見、何かを意味しているようで、ていねいに中身を突き詰めていくと実は何も意味していないような言葉が、沢山あります。
しかし、「献身」という言葉はけしてそのような言葉ではありません。
 むしろ、いわば一つの点を中心として描いた同心円のように意味が広がって行く言葉だ、という風に理解して欲しいと思います。
 では、その円の中心は何か、ということと、その円周はどこまで伸びていけるのか、をそれぞれ考えてみたいと思います。


3 一番狭い意味での「献身」~円の中心

 まず、円の中心を考えるために、献身という言葉の一番狭い意味を考えると、今日の聖書箇所、イエス様の洗礼が手がかりになります。
 イエス様は、神様のひとり子として聖霊のよって宿り、乙女マリアより生まれ、小さな弱々しい人間の赤ん坊としてこの世に遣わされました。
 そしてその人生の歩みの最初の段階では、神様のひとり子でありながらも、普通の赤ん坊や子供がそうであるように、衣食住や教育や職業人としての成長などの人間としての暮らしについては他人任せの立場、いわば消極的、あるいは受動的な神様のひとり子として育てられたと言うことになります。
 しかし、すべての人がそうであるようにやがて、イエス様も人間として成長し、やがて大人になって自らの人生を選び取るべき年齢になっていきます。
 今、皆さんは勉学の身ですが、自分の進路の問題とか、将来の職業選択とかはいつも切実な問題として、頭の片隅にあるんではないかと思いますが、この聖書箇所の場面の少し前のイエス様も同じような思いで日々を暮らしていたのではないか、と思います。
 そして、イエス様はいよいよある年齢になったときに、自ら志し、またあえてヨハネの反対を押し切って洗礼をお受けになりました。
 その受洗の意味するところは、神様のひとり子としてのお立場、もっとはっきり言うならば、十字架の受難をうけるべきお立場を、積極的、主体的に自ら進んで選び取り、そのことを神様に表明されたと言うことになります。
 「洗礼」が「献身」の決意表明であるという前提に立つなら、「献身」の最も狭い意味、それはイエス様の受難です。
つまり、イエス様の「洗礼」とは十字架の受難の道を自ら積極的に引き受けるという、「献身」の決意表明であったと言うことになります。


4 「献身」の円はどこまで伸びていくか~円の外周

 さて、しかしです。
 イエス様のような「献身」を出来る人は誰一人いません。
 なぜなら、神様のひとり子はイエス様ただ一人だけだからです。
 だから、クリスチャンがみな、イエス様のように十字架にかからなければいけないと言うことでもありません。
 それに、もし、クリスチャンが全員、十字架にかかってしまったら一体、誰がイエス様の福音を述べ伝えることが出来るでしょうか。
 では、逆にクリスチャンは全員、牧師先生になって福音伝道すべきである、ということでしょうか。
 これは半分はその通りであり、半分はそうではない、といえるでしょう。
 そうでない半分というのは、クリスチャンは全員、牧師先生になるべき、という部分です。
 神様は、一人一人に様々な賜物を与えて下さっており、世の中の様々な場に私たちをおつかわしになります。
 この世には様々な職場があり、様々な職業がありますが、それら一つ一つに、御心のままに、ふさわしい賜物を与えられた人がそれぞれに遣わされるのであって、必ずしも牧師先生になることだけが献身ではないだろうと思います。
 一方、半分はその通りであるという、その半分は、クリスチャンは全員、福音伝道すべきである、というとことです。
 つまり、クリスチャンにとっての「献身」とは「福音」を宣べ伝えること、それが「献身」なのです。
 しかし、この世の様々な職場の多様な職業の場に遣わされたクリスチャンはどのように伝道すべきでしょうか。
 それは、一人一人の状況に合わせて神様がちゃんと教えて下さるので、まったく心配ありません。
 また、神様はその人に出来もしないことを求めたりはなさいません。
 だから、例えば私自身の例で言えば、毎週、教会に通っていることや、時々、奉仕していることを職場で話していましたし、みんなで議論しているときに判断に迷うと、クリスチャン的にはこういう風に思うんだけどなぁ、などと言う話をすることもありました。
 (もちろん、自分の仕事が御心にかなうかどうか、不断に尋ねつつ取り組んでだことは、言うまでもありません。)
 なんだそんな程度でいいの、といわれると大変、お恥ずかしいのですが、しかし、それが神様が私に与えた伝道のチャンスであり、方法だと思っていました。
 まぁ、私のことはどうでも良いのであって、このへんでここまでのお話を要約して結論としたいと思います。
 つまり、「洗礼」とはなにか、それは、

 福音伝道ために日々の暮らしや家族、友人を神様が支えてくださっていること、

 また、福音伝道のために必要な言葉や行動を神様が与えてくれるとを信ずること、

 そして、その上で福音伝道という「献身」の決意を表明すること、

 それが洗礼である、と言うことが結論です。


5 ゴールがあるならルートも必要

 さて、一定の結論が得られたところでこのお話はお終いなのですが、実はもう一つ大切な「祈り」というキーワードが抜けているので、そのことを補わなければなりません。
 イエス様は洗礼を受けたことによって十字架の受難というゴールを自ら選び取り、そのことを神様の前に明らかにされた、といいました。
 さて、ゴールがあればそのゴールにどう行き着くかというルートがあるはずです。
 実は、お弟子たちや群衆が期待したことは剣をふるうこと、あるいはこの世的な力の発揮による神様の国の実現であり、油注がれた救い主による異民族支配からの解放でした。
 つまり、人々は最初から違うゴールをイエス様に期待していたし、だからルートについても違うルートを予想していたのです。
 では、イエス様の目指した受難というゴールに至るためのルートは何だったかというと、当然、剣を振るうことではなく、祈りを通して神様に向かって歩んでいく、ということでした。
 そして、その到達点がオリーブ山での祈りの場面に描かれているのです。
 そのような観点から先ほどの結論を補うと、洗礼とは献身の決意表明であるとともに、その実現のために絶えず神様を賛美し、信頼し、祈り続けるという決意表明である、ということも付け加えたいと思います。


6 洗礼はゴールではなく、スタート

 以上、色々と難しいことを言ったんですが、最後に、私が個人的な実感をお話ししたいと思います。
 今日のお話の最初で受洗試問のことをお話ししましたが、いつも思っているのは、洗礼を受けるというのは、何かのゴールではなく、やっとスタートを切ったと言うことに過ぎない、ということです。
 ひょっとすると洗礼なんか受けなくても、イエス様とともに信仰の道を歩み続けることが、出来る人もいるかもしれない。
 でも、私も含めて、たいていの人は何年も続く長い信仰生活を、一人で歩めるほど強くないだろうと思います。
 だから、多分、役員たちが受洗試問で共通して思っていること、そして祈っていることは、今始められた、この方の信仰生活をどんなことがあっても、最後の最後まで、神様が守ってあげて下さい、ということだと思います。
 また、そのために、どうかこの教会を、この私たちを用いて下さい、ということだと思います。
 そして、ここが大事な点ですが、役員は全員、神様がなにがあろうとその方の信仰を導いて下さることを信じている、ということです。
 なぜ、そのような信ずることが出来るかというと、私たちが祈りを通して神様との人格的な関係に中にあるからです。
 さあ、ここでもう一つ訳の分からないキーワードが出てきました。
 「神様との人格的な関係」ってなんでしょうか。
 神様は人間ではないのに、まぜ、人と人との間にあるような「人格的」な関係を築きうるのでしょうか。
 それはいつかまた時間のあるときに、ということにして、今は皆さんに大きな疑問符だけをお預けしておきたいと思います。
 いずれにしても、どんなことでも第一歩を踏み出さなければ、どこにも行けないのです。
 そして、信仰の第一歩を踏み出せば、それが誰であっても、神様は「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言って下さることだけは、今日、覚えて帰って欲しいと思います。

 祈ります。

 天の国の恵み深い神様。
 今朝、神様とイエス様のことを皆さんの前で証しする時と場所と言葉を与えられたことを感謝します。
 そして、その終わりに当たって、御名の栄光を賛美します。
 すでに洗礼を受けて献身の志を捧げたものには神様がさらに豊かに聖霊を注いで下さいますように。
 また、これから人生の重大な選択をしなければならないものがあれば、どうぞ「洗礼」の志を与え、自ら進んで主の恵みの座に進み出るよう、豊かな招きをお与え下さい。
 この一言の祈り、尊き御子イエス様の御名によってお捧げします。
 アーメン

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