「悔い改める必要のない」?
99匹の羊の譬えは教会に縁のない人でも知っているくらい有名なお話です(長くなるので該当聖句はこの記事の末尾に載せました)。
しかし、ルカが99匹のことを「悔い改める必要のない」と言っていることに違和感を覚えないでしょうか。
「正しい者はいない。一人もいない」ロマ3:10bというパウロの言葉を思い起こすなら、ともに旅したかもしれない?ルカが、このような言い方をしたのは腑に落ちかねます。
マタイの並行記事には、さすがにそのようなあからさまな言い方はありませんが、滅ぶのは迷い出た1匹の方で、残された99匹は滅びに落とされないと言外に述べていますので、構造としてはルカと同じです。
マタイもルカもいわゆるQ資料という同じ資料を基にして、それぞれの記事を書いたと思われます。
マタイの山上の垂訓(5章冒頭)とルカの平地の垂訓(6章17以下)を比較すると、ルカの方が言葉少ないことから、一般にルカの方がQ資料に忠実、逆に言うとマタイの方が多くの編集が加えられれていると考えられているようですが、だとすればルカの「悔い改める必要のない」99匹という言葉の方が元来の伝承に近いということでしょうか。
私としてはそのように考えざるを得ない、と思います。
なぜなら、マタイの方は、冒頭に「あなたがたはどう思うか」という言葉を加えていて、Q資料に編集を加えた跡が見えるからで*、だからこそ、彼は「悔い改める必要のない」という譬えの露骨な解き明かしを、譬えの一部に置き換えてしまったのでしょう。
*本ブログの9月26日の記事にもマタイの編集の例をお示ししてあります。
かくして、次なる疑問は、この「悔い改める必要のない」という言葉が、あるいはこの譬え全体がイエス自身に遡るかどうか、が問題になります。
結論としては、分かりません、と答えるのが一番、誠実な姿でしょう。*私見は本記事末尾参照。
だから、ひとりひとりイエスの受難と復活を念頭に判断していくしかないのですが、仮にイエスに遡らなかったとしても、例えば、99匹が本当に「悔い改める必要のない」人たちだったのだろうか、Q資料を伝えた人たちはイエスを一面的にしか理解していなかったのではないのか、という自問を通して、この話が今日の私たちに教えてくれることはたくさんあります。
【参考~新共同訳から】
♪マタイによる福音書18:12-14
あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。
はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。
そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」
♪ルカによる福音書 15:4-7
「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。
そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、
家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。
言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」
【私見】
この譬えがイエスに遡るか否か、確たる所は不明ですが、私自身は遡らない、と考えています。
イエスに対する人々の理解は、生前は第一義的には律法の教師、ついで預言者、そして復活を経て最終的にはキリストと変遷したと考えられます。
一方、ユダヤ教には、律法を遵守する人は救われ、そうでない人は滅びるという考え方はありません。
たとえて言うなら、イスラエルの民の一人でも安息日を守らなければ民族全体に神の怒りが下るのであり、だからこそ、安息日に赦されることと赦されないことについて人々は真剣に議論を交わしたし、それがやがてタルムードに結集することになります。
つまり、律法の教師として、また預言者としてユダヤ教の伝統にたつイエスが、99人が救われ、1人だけが滅ぶ、という譬えを語るはずがないのです。
ところが、キリスト教の教会がユダヤ教のシナゴーグからある程度、分離独立後に教会がこの話を創作したと考えると、この譬えの意味がすっきりします。
つまり、自分たち、99名は救われることに決まっているが、まだ、シナゴーグにとどまっている人たちは救われないだろう、しかし神はその人たちも、自分たち同様にキリスト教会に招き寄せてくださっているのだ・・・という意味が読み取れるのです。
以上、証明終わり、Q.E.D.という訳にはいきませんが、一応、私の現時点の判断を申し上げました。
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