お尋ねへのお答え


「女性の性欲を否定する19世紀的倫理観」という発言についてお尋ねをいただきましたので、4,000字を超える長文で失礼ですが、以下によりお答えとします。

1 共同体による「性欲」の管理について

 もし、女性に性欲が無いなら、私達はみんな性的暴力の結果としてこの世に生を受けたということになるでしょう。
 しかし、現実がそのような想定に矛盾するなら、女性にも男性と同様の性欲があり、その現れ方が異なるだけだ、いわば異なるベクトルの交点に男女の出会いと家庭が成立する、と考えられます。
 一方、男女の性的関係は出産育児の問題と直結しており、彼らを包摂する共同体にとっては、共同体の世代間継承という積極的な課題と生産性の上限内に共同体を維持するという消極的な課題の双方から一定のルール作りを求められる筈です。
 まぁ、乱暴にいうなら赤ん坊がたくさん産まれることはおめでたいけれど、みんなで飢え死にするのは願い下げ、ということです。
 そして歴史のある時点まで、地球の表面の大部分は、必要量が生産性の上限ぎりぎりの共同体、いわば剰余生産物を確保できない共同体に覆われていたはずです。
 そのような中で上述の課題に取り組むとしたら、男女両性が協力して生産活動に力を尽くすような、両性が納得のいくルール作りが必要なはずであり、それは性を管理することのみならず、共同体全体の男女の権利と役割の分担のルールとして作り出されるはずです。
 すなわち、前近代においては男女の権利と役割が女性にも納得のいく形で、つまり実質的平等=機会平等ではなく結果平等に従って分配された共同体の方が主流だったと考えられます。


2 北部沖縄の女系社会

 ここでひとつの例として、安里英子さんが「琉球弧の精神世界」で報告している興味深い話をご紹介させてください。
 沖縄の南部は平地が多くて古くから米作りが行われ、主食も米を食べていたそうですが、北部は山が多く米作りができないので芋類が主食だったそうです。
 そういう風土の中で、戦後においてすら北部独特の暮らしぶりが残されていて、畑で芋を作り、リーフの中で魚や海藻を採取すること、つまり暮らしを支えることは女の仕事とされていたそうです。
 一方、男たちは普段は山で炭焼きをしており、リーフの外に大型魚が回遊してくる季節だけ、村に呼び戻され、村中をあげて漁労作業に精を出すのだそうです。
 当然、安里が取材したのは戦後ですから、一定の現金収入も必要で、女たちが山に入って炭を担ぎ出し、町に売りに行って現金を得ていたそうです。
 このような自然環境と生産様式の上に乗っかってくるのが、女たちによるお祭りで、男たちもお祭りの準備は手伝うものの、神さまの前に出るのは女にしか許されないし、女たちの中でも一定の年数の経験のある女でなければ、祭壇の前に出ることはできないと言うことなのです。
 つまり、宗教的な役割を担い、また、町の商人と交渉して現金収入を得てくる女性は実は村の主権者であり、村の中の様々な課題を差配する上でも大きな発言力を持っていることを示していると考えて良いと思います。
 そして、例えば、財産継承が女系に行われており、だからこそ女たちの家に男たちが寄宿して「源氏物語」を産んだ平安の社会、ル・クレジオが驚きを持って「悪魔祓い」で描いたインディオの男女平等で性的にも驚くほど放縦な社会を見出すとき、この沖縄北部で行われていたような共同体の姿が世界中に広がっていたと考えられます。

*余談ですが、欧州の王族においては、男女両方に相続権があり、王家に属する動産、不動産は息子にも娘にも継承されました。だからこそ、近代国家が誕生する以前には、王族の間の政略結婚には国家再編の戦略としての実質的な意味がありました。

3 剰余生産物が歪める両性の役割と権利

 さて、それならば、なぜ私達の社会では女は家庭にあって出産、育児、家事労働に従事することとなっているのか、が次に問われるべき課題となります(家事労働の無償有償は本質的な論点では無いと思っています)。
 その場合に、男女平等な社会を生み出す前提条件として剰余生産物が無いこと、を置いたことを思い出していただきたいと思います。
 剰余生産物の発生については、遠距離通商による商業資本主義、ついで産業革命後の産業資本主義などの歴史叙述が多くの論者によって行われており、いまさら繰り返すことはしませんが、そうした手段によって剰余生産物を確保することが出来たのは、出産や育児という共同体の継承に必要な責務から解放されている男性が中心だったことは容易に推察できます。
 (マルコ・ポーロの隊商もコロンブスの船団も、その顔ぶれは男ばっかりだったということです。)
 そして、剰余生産物は当然、それを獲得した者に帰属し、その分配についても男性中心に行われたと考えられます。
 ちなみに、剰余生産物は上掲のような経済によって得られる場合と、権力による搾取によって得られる場合の両方がありますが、世界史を顧みるとき、市場と貨幣を活用した経済によって獲得する方が、権力によって搾取するよりも広い地域をカバーできるうえ、より効率的であるので、その獲得の規模も大きくなり易いと言えるでしょう。
 ちょっとクドい言い方でした、スイマセン、ざっくり言うと、中国やインドの大帝国が力で周辺諸国を権力で支配するには権力者その人の相当の力業が必要ですが、市場と貨幣を使った商売、つまり経済で征服する方が商人たちに力を利用できてラクチンだし、初期費用は少ないし、進出先における抵抗も少ない、と言うことです。
 だから、新大陸の金や銀などの希少金属(実物貨幣)を大量に手に入れて経済力を身につけた近代西欧社会、そしてその先輩格として遠距離交易に何歩も先を行っていた中東のサラセン社会が、他の地域に先駆けて、広い範囲にその交易と文化をひろげたのだ、ということですね。
 そして、そういう視点で見回すと、歴史の早い時期に剰余生産物を獲得した社会、すなわち西欧のキリスト教世界と中東を中心としたイスラム世界において、女性の地位が低いことの背景にはそのような剰余生産物を巡る物語があったということです。


4 女には性欲がない、という主張の差別性

 さて剰余生産物の分配の権限が男性に集中している社会では当然に女性は従属的な地位に追いやられることになりますが、その場合に共同体の維持再生について女性の果たすべき役割も男性の主導によって定められることになる筈です。
 そして、そのことは英米仏独や日本のような先進国においてさえ女性参政権が20世紀なるまで認められなかったことからも明らかです。
 そのような中で女性の性と出産を管理するために19世紀の西欧を中心に新しくて独特の男女役割分担が社会的に広がり、その中で女性には性欲が存在しない、という作り話が普及したということです。
 そして、女性の性欲は、合法的に形成された家庭の中における合法的で優しい性暴力として許容される場合か、商品として売買される場合しか存在しないという社会的な位置づけを与えられるに至ったということです。


5 聖書における性差別

 実は、聖書の産まれた地域は、世界の中でも非常に早い時期から権力による搾取と商取引の両方による剰余生産物が豊富に流通した社会だったと思われます(近代以前には戦争は権力による剰余生産物の搾取であり、広域にわたる戦争は交易=貿易のひとつの方法でした。日本史における倭寇にもそのような実例を見ることが出来ます。)
 そのような地域にあって、上でご紹介した沖縄北部における女系的な共同体の記憶の保存庫として機能していた多神教(地母神信仰)がユダヤ人の間で否定された結果、産む性としての社会的制約を負っていた女性が社会の中心から周辺へ追いやられたはずです。
 そして、西欧における産業資本主義による剰余生産物の急増が女性差別を確立する上で、手近にあった聖書の女性観を含む世界観を都合良く利用したと考えられます。
 もとより、性を商品として扱うことは許されないし、聖書はまさにその点について繰り返し批判をしています。
 しかし、男女間での公的領域や私的領域における不平等な役割分担については、マルタとマリアの出来事やパウロ書簡において陰に陽にこれを許容しており、この点については正義の観点からは批判を免れないと思います(御子の受難と復活はそうした女性差別=産み育てる力の抑圧の伝統に対する強烈なダメ出しだったのに、教会の男性たちには十分には理解されなかったとも言えます)。
 O先生が家庭伝道の大切さを力説する際には、完全に稼ぎ手として夫と子育てと家事を支える妻という、剰余生産物の稼ぎ手(実際は搾取者)としての男性と権利を抑圧され周辺化された女性という現状認識を欠いており、加えて、その背後にあって剰余生産物を産み出している商品経済社会(=産業資本主義)の罪とマジックの認識を著しく欠いているという印象を拭えませんでした。
「女性の性欲を否定する19世紀的倫理観を無反省に引きずっているという批判は免れない」と申し上げたのは、そのような2重の認識不足を指摘したものでした。


6 悪魔を見据える

 おそらくO先生がそうであるように、私も逐語聖霊論者です。
 しかし、そのことと、聖書を勝手に自分たちの都合に合わせて利用してきたキリスト者の罪は別物です。
 あるいは、こう言うことも出来るかもしれません。
 もし、終わりの日がやってきたら、その時には聖書もまた焼き滅ぼされてしまうでしょう。
 なぜなら、聖書は神の言葉そのものであるけれど、それは所詮、人間が書き留めた不完全な書き物であり、終わりの時には完全な三位一体の神と私達とともにいることになるからです。
 そして、そのことは聖書の中からも外からも神の言葉を届ける道を神は備えてくださっているということを証明していると考えるべきでしょう。
 聖書に聞くことをないがしろにすべきとは絶対に思いませんが、聖書に聞けばそれで十分である、という高慢は悪魔が喜ぶことはあっても、神さまの祝福されるところではないでしょう。
 元気いっぱいのO先生のお話を伺いながら、そのような高慢を感じたのは私だけだったのでしょうか。

【補足】
①21世紀のこの世界に、剰余生産物が本当に存在しているのか、グローバルな視点で見た場合には、そんなモノは実は存在していないのではないか、と疑念を抱いていますが、その点については今のところ、確たる情報を得ていません。というよりも、そんなことを正確に測定すること自体に無理があるという事実に驚愕し、罪の自覚の促しを発見するべきかもしれません。
②現代社会を支えている交換の働きを否定することは困難でしょう。みんなで自給自足の生活の戻ることは、マルクスの叱責を末までもなく、まさしく空想的な想定です。だから、交換の働きを支える市場と貨幣の機能が社会を維持するために必要であるという現実は受容します。しかし、市場と貨幣が自己目的化しないための一定の規制が必要であり、そのためには私的所有権の公権力による規制や、その規制そのものを産み出すための民主的な手続きが必要であることは明らかです。その意味では、自分のモノは自分のモノ、また、その果実もどのように産まれ、入手したものであってもすべて自分のモノ、他人には指一本触れさせない、というリバタリアニズムの主張は容認できません。しかし、例えば米国における格差拡大が階級闘争を産み出すのではなく、貧しい人たちを「自分のモノが奪われないように気をつけろ!」と扇動して権力を握ろうとする動きが強まっていること、そして、そういう貧しい人たちが集っている教会が、誤った方向へ進みつつあることを懸念せざるをえない、という点では、先生と一致できる認識だと思います。

琉球弧の精神世界
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