22世紀の出エジプト

(以下の文章はCS中高科奨励の原稿として書きましたが、哲学から世界史に話題が及んでいて、中高生にはちょっと難しいし、内容的にも過激すぎるので、ボツにしました。でも、面白いと思ったのでここにアップします)

 今朝も例によって、一言だけ覚えて帰ろう!シリーズでお話ししたいと思います。
 今朝の一言はルカによる福音書1章37節「神に出来ないことは何一つない」という言葉です。

 私達は日々、色々の経験をします。

 そして、その経験をもとに私達自身と私達を取り囲む世界を説明するための物語を作り出します。

 自分は、国語は得意だけど数学は向いてない、とか、あの友達は仲良しだけど、別の友達はいじめっ子だ、とか、そういう日々の経験が認識や知識となって積み重なり、一人一人の物語を紡ぎ出していく、と言うことです。

 僕のお爺さんは僕が子供の時に言いました。

 勉強しないとそば屋の出前持ちにしかなれないぞ、って。

 そば屋の出前持ちよりは自分はましな人生を歩んできたんだ、と彼は言っていたんですが、今から思えば、それが彼の生涯を支えた物語だったんですね。

 でも、そば屋の出前持ちじゃ、何故いけないのか。それを問い直すことが、彼に新たな発見を与えたのかもしれないのに、と思うわけです。

 でも、彼は、そういう問いを立てることなく、彼の物語という檻の中に囚われていたんだろうと思います。

 おそらく僕のお爺さんだけではなく、すべての人は、自らの作り出した目に見えない檻に囚われていると思います。

 その檻の立て付けを良く良く見ると、自らの経験に加えて、人種だとか国籍だとか性別だとか出身大学だとか職業だとか経歴だとか、色々の予断と偏見という補強材から作られている、ということが分るでしょう。

 しかし、人間はなぜ、そういう檻の中に、自ら進んで入ろうとするのか。

 ひとつには、人間は自分を取り囲む世界と、自分自身については、日々、白紙の状態から学び直すわけには行かないからです。

 だから、自分の経験や他人から聞いたことに学びながら自らの周りに檻を作り出す、と言うことです。

 また、それ以上に大事なのは、そうした檻を作り出すことによって自分の存在を守ることが出来るからです。

 つまり、僕の祖父にとってのそば屋の出前持ちより自分はマシな人間なんだという認識は、彼を檻の中に囲い込むと同時に、彼に安心を与える檻でもあった、ということです。

 しかし、自分勝手に作り出した檻が、自分を守ってくれるというのは、ひとつの幻想に過ぎない。

 もしその檻が幻想に過ぎないなら、自分はそば屋の出前持ち以下の人間かもしれない。

 今日、仲良しだと思っていた友達は、実は明日はいじめっ子の仲間に鞍替えしているかもしれない。

 昨日までホサナ、ハレルヤと自分を讃美していた群衆が、今日は、自分を十字架に追い上げようとするかもしれない。

 実は、西ヨーロッパでは17世紀くらいまで教会が大きな力を持っていて、天地宇宙の作り付けや是非善悪を保証していたので、人々を守り、お互いの争いを調整するのは役割を教会に期待し、お任せしていました(もちろん教会が自ら対立を作り出したという事件もあったのですが)。

 また、小アジアから極東までは強力な権力を持った王様が存在したので、人々はある意味非常に不自由な暮らしをしながらも、難しいことを考える必要のない、先祖代々と同じ事を繰り返す限りはなんとかなる、という暮らしをしていました。

 しかし、13世紀の西欧がもたらした緩やかな生産性の向上と、その波に抗って起こった宗教改革によって、それまでの安定的な社会が崩壊し、その影響は何世紀を経て世界中に波及し始めました。

 そして、僕の祖父のように一人一人が自ら檻を立てて閉じこもる社会になってきた、と言うことです。

 そういう社会の変化に伴って教会の役割も当然、変化していくはずです。

 社会の安定を図るために異端と戦った中世の教会。

 専制君主と新興ブルジョワジーの間で、自らを制度化することで生き残りを図ってきた近代の教会。

 共産主義を無神論と断じて*敵視し、自由主義経済諸国の政府と軍隊の力を借りて植民地への伝道を推し進めてきた現代の教会。

 そうしてみていくと、教会もまた自らの檻に閉じこもっていたことが分りますし、宗教改革がその檻を一度は打ち壊したものの、檻そのものの認識が神学的に確立されていないせいで、宗教改革もまた自らの檻に立て籠もることになってしまったということです(19世紀の高等批評に至っては檻の中の醜いつかみ合いに過ぎません)。

 しかし、神におできにならないことは何一つない、という聖書の言葉が真実なら、私達をその檻から解き放つことがおできになる筈です。

 そもそも、聖書は旅立ちと解放の物語で満ち溢れています。

 喜んで旅立ったときもあるし、涙とともに旅立ったときもありますが、いずれも最後は解放によって終わっています。

 つまり、今、22世紀を見据えて教会の実現すべきことは、神による解放のはずです。

 一人一人の檻という偶像崇拝に苦しめられる民を率いる出エジプトの預言者となることではないか、それが今日のお話の結論です。

 そして、その旅立ちを支え、導く言葉こそ、「神に出来ないことは何一つない」という聖句なのです。

*共産主義は理神論という偶像崇拝です。おそらく植物状態の人間を除けば無神論者など、存在しません。

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