「もし主が神であるなら」10月13日中高科奨励原稿


【課題聖句 列王記上 18章 21節】
エリヤはすべての民に近づいて言った。「あなたたちは、いつまでどっちつかずに迷っているのか。もし主が神であるなら、主に従え。もしバアルが神であるなら、バアルに従え。」民はひと言も答えなかった。

 先月の奨励で味を占めて、今月も「一言だけ確実に憶えて帰ろう!」シリーズをやりたいと思います。
 先月の聖句、ちゃんと憶えてますよね・・・(ここで誰か先生を当てて答えて貰う)

 というわけで、今朝も一言だけ、憶えて帰って下さい、それは以下の聖句です。
「もし主が神であるなら、主に従え。」

 聖書は聖なるテキストです。
 なぜなら、それは聖なる方について語っているテキストだからです。*1
 だから、それは、単に歴史や神話を伝えることを目的とするものではありません。
 また、権威あるテキストでも、ありません。
 だから、私たちを様々な義務や禁止に縛り付けたり、ルールに従わせようとするものでもありません。
 聖書は、私たちを自由な人間として解放し、喜びと感謝に満たされて歩み続けるように、励まし、力づける神の「力の言葉」、神の「行為としての言葉」*2なのです。
 そして、今朝の聖句も、まさにそのような言葉です。

 さて、もう一度、今朝の神の力の言葉、主の行為としての言葉を読みましょう。
「もし主が神であるなら、主に従え。」

 主は「主に従え」と命令していますが、しかし、よく見ると、「もし主が神であるなら」と前置きしています。
 そして、この言葉の後には、「もしバアルが神であるなら、バアルに従え。」と述べています。
 バアルについては、この後の時間で18章全体を輪読して説明しようと思っていますが、要するに、誰かが私たちを食い物にするために創り出したウソつきの神さまです。

 しかし、いい? ここ大事なところ。
 神さまは、ウソつきバアルについて行くな、とは言わないんです。
 あくまでも、あなたたちが自分で選べ、って仰るのです。
 さあ、大事なところだから、ちょっと落ち着いて考えましょう。

 誰かが彼氏や彼女にコクルのは、自分がその人を好きになったから、ですよね。
 そして、悩みに悩んで「やっぱ、コクろう!」って決断したからですよね。
 そして、そのコクリが受け入れられるのは、相手もあなたを好きだから、ですよね。
 まして、神さまはあなたのコクリを拒否するようなお方でしょうか。
 絶対にそうではありません。
 だとすれば、私たちが立ち上がって神さまを好きにコクった瞬間は、同時に神さまも立ち上がって私たちにコクって下さる瞬間でもある、と言うことなんです。

 なのに、そうやって、コクって受け入れられた私たちなのに、神さまを愛し続けられないのです。
 たとえば、私たち教会学校の先生方は、みんな洗礼を受けて聖餐に与るキリスト者です。
 イエス様が裂いたパンをいただき、イエス様と同じ杯から葡萄酒をいただく者です。
 しかし、私たちが常に本当の神さま、イエス・キリストの父なる神さまに従って歩んでおり、かつ、ウソつきバアルに背を向けて生きているでしょうか。
 多分、全然、そうではないのです。
 しかし、だからといって、そのような私たちや私たちの教会に、神さまは裁きを下し、滅ぼそうとされたでしょうか。
 そうではありません。(ただし、現時点においてのことですが)
 教会が出来てから2000年、主を裏切り続けた教会の歩みを、主は忍耐強く許し、贖いと癒しを与え、今もこうして礼拝に招き続けているのです。
 そして、そのような神さまが、今もなお、仰るんです。
 「もし主が神であるなら、主に従え」、つまり、あなたはどっちに従うのか、本当の神様のもとへ帰ってこい、って仰るんです。

 さて、先月の「愛は決して滅びない」という言葉も、今朝の「もし主が神であるなら、主に従え」も神の力の言葉です。
 しかも、バアルのようなウソつきの神さまではなく、そのひとり子、この世の創からずっと一緒にお側にいて仕えてきた御子イエスを十字架にかけて殺してでも、私たちを救おうとなさった本物の神さまの言葉です。
 では、本物の神さまの言葉と、偽物の神さまの言葉はどう違うのか。
 それは、最初に言ったとおり、私たちを自由な人間、自由な民として、この世のバアルのいましめから解放し、主にあってたえず喜びと感謝に満たされて歩み続けるように、励まし、力づけ、癒やしてくださる言葉であるということです。
 そして、この神の言葉が真にその力を発揮するのは、それを紙の上の命のない活字として受け止めるのではなく、私たちが選んでコクッた大切な神様の言葉として私たちの内側に受け入れ、そこにお住まいいただくことが必要なのです(係り結びが変だけどこれでOK、神と人との相互浸透を正しく表現できる人間の言葉は、少なくとも日本語には見いだせないから)。

 実は、先月から始めた、一言だけ確実に憶えて帰ろうシリーズを今月も続けるのは、そういう導きがあってのことなんだ、って今月になって気がつきました。

 だから、先月の「愛は決して滅びない」という言葉と、今月の「もし主が神であるなら、主に従え」という言葉を、シッカリ憶えて帰って欲しいと思います。

そして御心ならば、そのまま、私たち一人一人の内側にとこしえに住み続け、明るい光を照り輝き続けてくださるように、と祈りましょう。


*1 P.リクール「物語神学へ」参照。ただし、リクールは逆の言い方をしていて「聖書は聖なるテキストではない。聖なる方について語るテキストである。」と述べた上で聖書解釈の可能性について啓蒙主義時代以降の業績を乗り越えようとしている。私としては、リクールの主張を否定する意図はなく、むしろ彼の示す方向に従いたいと思うけれど、子供たちに語り聞かせるにはちょっと複雑すぎる、と申し開きしたらきっと、リクールは許して下さると思います。
*2 J.L.オースティン「行為と言葉」参照。言語哲学の観点から「真/偽」ではなく「適/不適」と評価される言葉とはどのようなものか、を問うている。リクールは行為の言葉としてイエスの声を聞こうとする視点からオースティンに言及している。L.ウィトゲンシュタインに後続する思想としても重要。

*この奨励は実際には行われませんでした。台風19号の来襲のため、土曜の日中には教会学校そのものを中止を決定して子供たちに連絡をしたからです。ただし、実際には台風一過の朝になって小学生と中学生の子供が二人来てくれたので、この原稿を元にしてアドリブの奨励をしました・・・もちろん、アドリブなので支離滅裂でしたが、みことばの力を信ずるのみ、って感じですね。

物語神学へ (ポール・リクール聖書論集 3)
物語神学へ (ポール・リクール聖書論集 3)

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