教会学校の説教を考える


 教会学校の中高科で説教奉仕にお用いいただいて何年にもなります。
 大体、半年に2回か3回の奉仕ですが、何回やっても納得のいくお話しができません。
 その理由をいくつか考えてみます。

理由1 説教時間の制約

 多くの教会学校の奉仕者の実感からいうと、幼稚児や小学生はもとより、中高生を相手にするときでさえ、お説教はせいぜい15分が限界、できれば10分くらいに収めた方がいいようです。
 だから、その短い時間にふさわしい分量の聖書箇所が与えられることが望ましいのですが、実際には、教師一人一人の個性やプランがあるので、誰にでも納得のいくような範囲を定めることは不可能です。
 例えば、私たちの教会で用いている、いのちのことば社の「成長」は一回あたりの聖書箇所がかなり長めに指定されている一方、参考にWEBで教団出版局の「教師の友」をみると、各回の分量がぐっとコンパクトに示されています。
 具体的に見ていくと「成長」は7月21日分として使徒言行録8:1-3、及び9:1-22を示していますが、「教師の友」は10月6に使徒言行録9:1-9、翌週13日に9:19後半-22を示しています。
 つまり、パウロの回心から伝道の開始までを1回で話すか、2回に分けて話すか、という違いです。
 正直、たとえパウロの回心だけであっても、15分程度で話が出来るか、というと決して、十分な時間があるとは思えません。
 パウロがどういう人であったか、ということを話しているだけであっという間に5分くらい、たってしまうでしょう。
 そして、なぜ盲目にされたのか、そこにある主の招きと救いの逆説を説き明かすためには、もう一つ、恐らく教師の証的なエピソードを紹介することになるでしょうが、それだけで10分を超えてしまい、最後にまとめをしてお祈りをすると15分位を要するでしょう。
 その意味では、「成長」のように大きく範囲を示して、あとは教師の選択に任せていただいた方が、自由度が高くて、話を組み立てやすい、という側面もあるのですが、その分、どの部分をどう切り取るか、教師の悩みは一層深まる、という面もあるでしょう。
 いずれにしても、時間的制約の中で聖書の物語を教えようとすると、ある程度の範囲に切り取らざるをえないし、教師の側でもその点について不安や不満が残りやすいと言えるでしょう。

理由2 ショートスピーチの難しさ

 大人になれば、職場をはじめ色々の場面でショートスピーチを求められることがあります。
 一般にショートスピーチは、それ自体、難しいものですが、それでも多くの場合、話す側と聞く側で一定の状況や前提の共有を期待できます。
 例えば、結婚式でのショートスピーチなら「結婚」という話題が最初から共有されているはずですし、職場の朝礼のショートスピーチなら「目標達成」とか「安全衛生」とかの話題が共有されていると思います。
 だから、その前提を起承転結の「起」や序破急「序」の部分に置けば、いい。
 例えば、結婚式なら「結婚は人生の墓場と申しますが・・・」とか、職場の朝礼だったら「第三四半期も大詰めを迎えましたが・・・」と一言いえば、それを「起」として振った上で、すぐに次の展開に進むことが出来ます。
 しかし、CS説教の場合は、どうしても聖書物語を「起」として置いて、一定のストーリーを語り聴かせる、というステップを踏まざるを得ません。
 私の実感を共有していただけるか不安ですが、「起」が重くなると、つまり、冒頭部分のテンポが悪いと、その先の展開でその重さやテンポの悪さをひっくり返すのが一層大変になります。
 それどころか、「起」の部分で共通認識を作り出せなければ、その先の展開ものれんに腕押し状態になってしまいます。
 これを克服するためには、起承転結の中に小さな起承転結を入れ子にする手法もあり得ると思いますが、それをやりはじめると10分、15分ではとても収まらない。
 勿論、今週と来週で続き物にするという戦略もあると思いますし、「教師の友」はそれをあてこんでパウロの回心と伝道開始を2週に分けているのかもしれませんが、残念ながら、生徒数が激減している多くの教会学校ではそれは現実的ではないでしょう。
 ちなみに、多くの教師が、しばしば講壇におけるみ言葉の取り次ぎは信徒や会衆の祈りに支えられていると仰いますが、それは上で述べたような前提の共有を期待している、と言うことかもしれません。
 だとすると、子供たちが教師のために事前に聖書を勉強したり、祈ってくれるということはほとんど期待できないところに、教会学校の説教を大人の礼拝の説教よりも一層、難しいものとしてしまう、隠された事情があるのかもしれません。

理由3 証が届かない

 入院したことのない人には、病人の気持ちを十分に察することができない、という指摘は、ある程度、真実だと思います。
 信徒が説教するのだから、聖書や神学の知識ではなく、証の力を頼りにしなければならないという事情の中で、子供たちの限られた経験あてこんで、どの程度、大人の証が届くのか、力を発揮するのか、という点も大きな不安材料です。
 ヨハネ8の冒頭にある姦淫の女の話で、誰もが心を動かされるのは、年長者から始まってだんだんと人垣がほどけていったという、描写だと思います。
 しかし、年長者から始まってという、そのことが示しているのは、罪の自覚とその赦しという形での神の愛を理解して貰うには、ある程度の人生経験が必要だと言うことであり、そのような神の愛を、人生経験の乏しい子供たちに理解させることは簡単ではない、ということです。
 だから、それ以外の証、例えば大きな困難の中で祈りが聴かれた、というような証を試みざるを得ないことになりますが、それは受け取りようによっては現世利益の神という誤解を生ずる恐れがあります。
 もし、子供たちがそのような誤解の延長上で受洗を志願したとしたら、いささか悩ましい思いを教師に与えることになるでしょう。

結論にかえて 教会学校の説教は誰のためのものか

 正直、こうなってくると、満足のいくような説教など、最初から出来ようはずがない、という思いに達せざるを得ません。
 しかし、だからといって適当なことを言って時間を埋めれば良いと言うことには絶対にならないはずであり、そんな、いい加減な大人としての姿を子供たちの前にさらすことはとても恥ずかしいことだと思っています。*
 だから、聖書や注解書を読んだり、様々な読書や人生の経験を動員して試行錯誤しながら(もちろん、祈りつつ)準備しなければいけないし、結局、それが自分の聖書の理解や信仰の姿をより研ぎ澄まされたものにしてくれるのだと思っています。
 そして、すべてを主にお委ねしながら、与えられた賜物を活かして、心を尽くして主にお仕えする姿を子供たちに見せること、それこそが教会学校の教師としてふさわしい姿なのであり、それだけで十分なのかもしれない、と思っています。

*これを書きながら「大人の言うことを聞け」NakamuraEmiを思い出しました。

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