大量消費社会と聖書


 新改訳のエゼキエル書8:3で「ねたみを引き起こすねたみの偶像」という言葉に出会ってハッとしました。

1 訳語の検討

 この「ねたみ」の語を新共同訳は「激怒を起こさせる像」と訳しています。
 察するところ、翻訳に携わった神学者の先生方は神学のことしか知らないままに、分かりやすい訳語を求めてこのように訳されたのだと思います。
 しかし、です。
 たとえば「welfare economics」という英語を、英語しか知らない方「福祉経済学」と訳すでしょうが、経済学の知識があれば「厚生経済学」と訳すはずであり、「福祉経済学」は誤訳です。
 ちなみに、英訳をいくつか参照したところ「the image of jealousy」の訳語を当てており、新改訳や文語訳の「嫉妬(ねたみ)の像」と同じ訳になっています。
 また、仏語訳を見ても「Le idole de la jalousie」と同様に訳していますが、一つだけ、La Bible du Semeur では「la statue de la provocation」、つまり「挑発」という言葉を当てている訳もありました。
 もちろん私にはヘブライ語は分かりませんが、他の訳と比較すると「激怒」という訳は見つかりませんので、どうやら行き過ぎた意訳のように思えますが、どうでしょうか。

2 意味の検討

 しかし、ハッとしたという、そのことの核心は、「ねたみ」や「挑発」が意味するところにあります。
 私たちが生きている商品市場経済の中で、商品の価値の本質とは何かについて、需要と供給の最適配分の実現とする考え方(一般均衡理論)、あるいはその商品に注ぎ込まれた労働力の価値であるとする考え方(労働価値説)などが提起されましたが、私は、市場における希少性の指標である、と考えています。
 つまり、ありふれたものは安いし、希少なものは高い、ということです。
 実際、同じ品物でも、値段を高く設定すれば、より高級で高品質に見えてくる、より希少であるように思えてくる、といういい加減なモノ、それが商品の価値であり、価格である、ということです。
 そうした希少性の欺瞞を、出エジプト20:17「隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない。」をも思い起こしながら、私は「ねたみ」という言葉の中に読み取りたいのです。
 また、「挑発」とは、大量に並んだ商品が消費者に挑みかかってくる大量消費への魔術的な誘惑であり、J.ボードリヤールが「消費社会の神話と構造」で私たちに提示したものをさすと考えられます。

 2000年以上の時を超えて主が送っておられるメッセージに私は驚かざるを得ません。

 そして、主なる神は続く6節で「イスラエルの家は、・・・大きな忌みきらうべきことをしている」とした上で「なおまた、大きな忌みきらうべきことを見るだろう」と、主の裁きの預言を与えておられます。


3 論語読みの論語知らず

 ちなみに、伝統的な神学からすると「ねたみ」とは単に異教の神を忌みきらう唯一の本当の神、という文脈で理解されるのだと思いますし、「激怒」という訳語はそのような理解にたった意訳なのだと思います。
しかし、その理解では、大量に溢れる商品が引き起こす「ねたみ」と魔術的な「挑発」に囲まれている私たちに向かって、なぜ偶像崇拝が罪なのか、そしてなぜ多くの人が易々と偶像崇拝に陥るのかが、を説明できないでしょう。
 つまり、聖書の理解にあたっては、神学の知識も必要でしょうが、それ以上に、まさにそこで主が働こうとしている社会のありさまを学ぶことが必要ではないか*、それでこそ主の願いに沿った祈りが出来るのではないか、と思っているのです。
 あるいはこう言っても良いかもしれません。
 キリスト・イエスが救い主であることを証するのは父なる神と私たちのはずです。
 同様に、聖書が主のみ言葉であることを証するのは、聖書がもっぱら自ら証するのではなく、父なる神と聖書を取り巻いて被造世界を丁寧に検討する諸学問のはずだと思いますし、そのことは私の信ずる逐語霊感説とも矛盾しないのです。

*私が福嶋揚氏に期待を寄せているのは、そのような学びの意欲を持った若い神学者であるからです。





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