置き去りにされた教会

 日本基督教団は、70年代に深刻な内部対立が起きて、今日でもその残滓に苦しんでいます。
 僕は、その当時のことを知る由もない者ですが、それでもそのことについてずっと考えて続けてきました。
 そして、最近、やっと分かってきたような気がするのです。
 もちろん、様々な原因があるのでしょう。
 しかし、おそらく最大のものは、経済学や社会学の大きな発展が70年代に始まった(または、日本に紹介された)一方、当時の対立の当事者がそうした新しい知見を踏まえることなく、19世紀の不十分な知見に基づく誤ったイデオロギーに従っていたから、ということだと思います*。

 僕自身、最近、接したのですが、例えばアマルティア・センの「合理的な愚か者」という論文があります。
 センは、厚生経済学を革新したとしてノーベル経済学賞を受けた人ですが、その業績の出発点になったこの論文が発表され、学会で注目させるようになったのは70年代半ばのことで、日本語訳は80年代に出版されました。
 また、外部性や情報非対称性に起因する「市場の失敗」についての知見や理論もその頃から明らかになってきたようです。
 同様に、社会学の分野についてもM.フーコー、R.バルト、レヴィ=ストロースなどの構造主義的な思想が日本に紹介され出したのは70年代のことですし、L.デュモンやP.ブルデューに日本語で接することができるようになったのは、もっと後の時代のことです。

 まして、というか、そもそも、と言うべきか、70年代に教団内部で対立を生んだ当事者はあくまでも神学の専門家であり、その垣根を越境した先にある上述のような諸学の専門的な知見に接し得なかったことは当然です。
 だから、彼らが多くの世の人々とともに、誤ったイデオロギーに引きずられたことを非難するのは気の毒でしょう。
 しかし、今でこそ明らかなように、そこには越境を促す神さまのメッセージがあったのです。
 にもかかわらず、現状を見る限り、対立の当事者やその後に続く人々が神学という垣根を越えて、神さまの招きに応えようとしたようには思えません。

 その間に、自然科学と技術開発は暴走を続け、今や生命倫理や環境問題、格差社会などの様々な問いが、キリスト者であるとないとにかかわらず、私たち全員に突きつけられています。
 為政者がそれらの課題をひた隠しにするという事情を割り引くにしても、多くの教師や信徒が明確な問題意識を持っていない、というのは非常に危機的状況と考えるべきでしょう。
 そして、社会派だの福音派だのという犬も食わないようなことを言い合っている間に、教会はすっかり、神さまから置いてきぼりを食ってしまいました。
 今からでも遅くない、越境に招く主の声に耳を澄ますべきでしょう。
 できるだけ沢山の書物を読んで知見を広め、あらゆる可能性に挑戦すべき時なのです。
 なぜなら、その向こうにこそ、福音の声を響かせるべき世界があるからです。
 

*自戒も含め、そもそもちゃんと勉強してたの?という疑問もあるのですが。

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