キリスト教と倫理


 世界は言葉の向こうにあって、人間は言葉によって技術や道具を開発して世界を利用する一方、実は世界に生かされてもいるのだ、と過去の多くの神話や宗教は考えました。
 そして、世界を象徴するような様々な動物や石や鏡や木像を拝んできました。
 しかし、近代になって、人々はそうした偶像崇拝に何の意味もないことを発見するとともに、デカルト的思考に導かれて、世界の本当の姿を探りはじめ、やがて、神は死んだ、世界に何の意味もない、単なる偶然の累積に過ぎないという認識に達した結果、それぞれ自分勝手に望ましい生き方や考え方を追求するようになってきました。
 しかし、キリスト教は、世界の中に神さまの意思や計画があり、偶然の累積ではないという認識に立って、世界には始まりがあるのだから、必ず終わりがやってくる、つまり、やがて「天地が滅びる」と考える宗教です。

 そして、神のひとり子であるイエスは、次のように世界の終わった後について教えています。

 「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」(マタ24:35)

 ところで、世界の終わりの後に、言葉であれ何であれ、何かが残ると主張するのは矛盾のように思われます。
 つまり、世界が私も含めた「すべて」を意味するなら、そのすべてが無に帰した後に、なお何かが残っていたら、世界が滅びたとは言えないだろう、と言うことです。
 もしも、世界が自らを偶然に生み出し、自ら偶然に滅びるならそのとおりでしょう。
 そして、それは、ある意味、私たちにとって、とても気楽なことかもしれません。
 世界の誕生にも破滅にも、また、その間の歴史にも私たちは一切の責任を負わなくて良いし、世界を利用し尽くし、枯渇させたとしても、また、その結果として私たち自身を破滅させたとしても、最後に生き残った一人がその前に食い尽くされた全員に対して責任を負う必要はない、自らの血塗られた口を拭った後、飢え死すればいい、ただ、それだけのことです。

 しかし、キリスト教は、世界は神が創り、終わらせると教えています。
 また、そのことから演繹して、神が偶然に翻弄されるような存在ではなく、ハッキリとした目的に向かって忍耐強く、計画的に行動する、私たちが人格と呼ぶ何かを持った存在だと考えます。
 そして、世界が終わった後には、最低でも神が残る、という結論に導かれます。
 では、神がたった一人で、世界がかつて存在した空間に立ち尽くすのか?
 イエス様は上掲のように、そうではない、言葉が残るとおっしゃるのです。

 多くの人は、「いや、言葉が残ったって仕方ないし・・・」と思うでしょう。
 しかし、ここでいう言葉とは約束という意味であり、世界が滅んだ後、神さまの約束が実現する、と教えているのです。
 その約束とは、たとえばヨハネによる福音書14章でなされている約束がその代表例ですが、ざっくりいうなら、世界の終末の後に、私たちの言葉では描写不可能なほどの、光と平安に溢れた神の国がこの世へ到来する、というものです。
 もちろん、そんな約束、にわかには信じられない、という方のほうが多いでしょう。
 まして、キリスト教の世界観、つまり、世界は偶然の累積ではなく、人格的な神によって創造され維持されているということになれば、私たちの世界の中における立ち居振る舞いはすべて神の前で責任を問われることになるので、窮屈この上ない事態となります。
 しかし、その窮屈さが倫理であり、本当の意味での道徳なのです。

 「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない。」(マタ22:34)

 すべての人がその神の国に、また、キリスト教に立脚した倫理に招かれています。
 そのことは、私たちが好き勝手に生きて良いと言うことではなく、倫理的に生きていく義務と責任を負っているという、当然のことの本当の理由なのです。
 そして、この聖句の本当に畏るべきところは「選ばれる人は少ない」というところ、つまり畏れ謹んで倫理的に生きるようにと奨めているという点です。
 しかし、同時に、イエス様は「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。」という有名なお言葉に続けて次のように仰っておられます。

 「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタ11:30)

 キリスト教を信じようが信じまいが、いずれにしても私たちは一定の社会的ルールの下で生きて行かねばなりません。
 その時に、為政者が自分たちのために造り上げた日の丸君が代崇拝のような怪しげな道徳に従うのか、神さまが招いている本当の倫理に従って生きていくのか、例えば小学校で自分の子供にどっちを教えて欲しいか、と言うような具体的な視点からお考えいただきたいと思います。

ソレイユの丘の菜の花

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