イデオロギーの向こうから


 先日の大根の話を簡単に要約すると以下のようになります。

1 人間は世界を利用するために自分たちに都合良く世界を分節化し、構造化する。

2 その働きによって言葉と社会が形成され、次いで偶像崇拝とそれを支える神話、すなわちイデオロギーが産まれる。

3 聖書と信仰の実践は、イデオロギーに囚われている私たちを、言葉の向こう側、つまり世界そのものである神の世界に招き入れ、イデオロギーの呪縛から解き放たれる。

4 招きに応じて、言葉の向こう側で神さまに出会った(受洗)私たちは、肉なる言葉であるイエス様を通り、我が身にまとって(聖餐)再び世界に送り返される。

 そのように考えると、ヨハネ福音書の「真理はあなたたちを自由にする」(8:32)は上記3を言い表しているという理解に導かれますが、次なる疑問、あるいは課題は、上記4の部分、すなわち、自由にされた者としてこの世に送り返されたキリスト者は神さまから何を期待されているか、という部分をもう少し掘り下げてみたいとおもいます。

 結論を先に述べると、キリスト者の働きとは、イデオロギーから解放された者として、イデオロギーの支配下にあるこの世に仕えることだ、と思っています。

 イデオロギーに支配されているこの世が御心にかなわないのは明らかです。

 しかし、そのようなこの世を神さまは今なお、大洪水で滅ぼしていない以上、この世の終わりまで、私たちはその世に仕えなければならない。

 ここにル・クレジオの「歌の祭り」という本があります。*

 この本は、新大陸の先住民族の神話的世界への強い憧憬とその権利回復を訴える、大変、感動的な著作です。

 そしてこの本を読むと、人身御供を含む彼らの神話的世界が聖書の律法からは絶対に許されないものでありながら、それらの民族と世界を破壊したのが、神さまではなく、ルネサンス期の西欧人、つまり、海の向こうからやってきた、もう一つのイデオロギーだったということが分かります。

 そして、この本に含まれる「失われた均衡の探求」という美しい、しかしショッキングな言葉が、教会の内外に存在する様々なイデオロギーの間に立って、霊の働きに導かれながらキリスト者が仕えるべき働きを示している、と思われてならないのです。

 私たちの世界には、R.デカルトに淵源する科学という偶像に対する信仰があり、R.オーエンやK.マルクスのような共産主義のイデオロギーや、F.ハイエクやM.フリードマンの主張する自由主義的なイデオロギーもありますが、その間にあって、均衡を探求することがキリスト者の働きなのではないか、ということです。

 具体的に言うなら、力や富が少数の者の元に長くとどまることのないようにすること、常にシーソーの反対側に力を貸して、世のすべての人から裏切り者と呼ばれながらも、ちゃっかり生き残り続けること、かつてA.カミュが主張したように、革命によってユートピアを実現しようとすることではなく、どこまでも反抗し続けること、それがキリスト者に期待されていること、だと思います。

 では、その戦略はどのようなものか、その点については、確率・統計とゲーム理論にヒントがあると思うのですが、それはもう少し検討してみたいと思います。


*管啓次郎訳、2005年岩波書店刊、ISBN:9784000222020。版元で在庫切れのようなので図書館で借りてみてください。


歌の祭り
岩波書店
ジャン・マリ・ギュスターヴ・ル クレジオ
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