「聖餐の豊かさを求めて」を読みました


 本書は聖餐を巡る議論の中でツイッター上でお奨めいただいた本であり、お奨めいただいた方へのお礼に代えて読後感を記します。

1 どうしても指摘しておきたいこと

 この本の編著者である山口雅弘先生は冒頭11ページで以下のように書いておられます。

「さらに私は、次のことを無視できなくなりました。いわゆる「知的障がい」を持つ人々の共同体からの問いかけです。(略)その方々が共に礼拝において体全体で喜びを表し、讃美し、神に生かされていることの感謝を「告白」しているにもかかわらず、狭い意味での「言葉」と「意志」で信仰を告白できない人は、受洗と聖餐という面からも「教会員」や教会共同体の外に置かれるという現実があることを知らされたのです。」

 「知らされた」と書いておられることから、障がいを理由に洗礼を拒んでいたのは山口先生ではないことは明らかです。
 しかし、そのような教師がいるという許しがたい現実についての山口先生ご自身のお考えを明言されていないことは、結果としてそれを許容しているという誤解を招きかねないと思われます。
 まして、そのような教師が現におられることを理由として、未受洗者配餐を許容すべきというご主張は、誰であっても受け入れがたいと思われます。

*同じような議論が山口里子先生の論考(167ページ)においても展開されています。
 

2 本書の全体について

 本書の掉尾を飾る高柳富夫先生の聖餐に関するお説教の中の「イエスの食卓の実践を出発点とし根拠とする限り、その食卓はすべての者に開かれた、すべての者を包含する食卓なのであって」(218ページ)というご発言が本書の主張を最も良くダイジェストしていると思います。
 しかし、なぜ、イエスの食卓の実践を出発点とし根拠をするのか、教会の2000年の歴史を否定して、受難以前に回帰しなければいけないのか、という点については、本書は十分な説明を行っていません。
 そのかわり、冒頭にお示ししたような先生方の牧会経験に基づく感想や海外の教会での感動の経験などが述べられていますが、本書の主張の根拠とするに足るほど、論理的でも、体系的でもありません。
 せめて日本の教会の内、未受洗者配餐を行っている教会が○○%、牧会的配慮から個別に弾力運用を行っている教会が○○%というデータだけでもあれば良かったのに、と思いました。
 山口雅弘先生は本書の後書きで建設的・創造的な対話を、と呼びかけておられます。
 しかし、このようにバックデータもなく、根拠も曖昧なままで対話に突き進めば、建設的で創造的な議論になりにくいのは、やむを得ないところでしょう。
 もちろん、本書にはカソリックや諸外国の状況や教団式文の変遷などとても勉強になる部分も多く含まれていましたが、全体としてみると、上で述べたような核心部分が不足していて、不満の残る内容でした。
 ぜひとも早い時期に、上記の核心部分を補うような建設的で創造的な本が出版されることを切望しています。

*本書は、2008年に新教出版社から刊行されました。本文にある山口先生や高柳先生を含めて9名の先生方が執筆しておられます。



聖餐の豊かさを求めて
新教出版社
山口 雅弘

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