「子孫を大地の砂粒のように」して欲しいですか?



1 それは祝福ですか?
 創世記13:16には「あなたの子孫を大地の砂粒のようにする」という神さまの祝福の言葉が記録されています。
 それ以外にも「産めよ、増えよ、地に満ちよ。」創世記9:1bという祝福もあります。
 しかし、子孫が増えると言うことを私たちは祝福として受け止めるかというと、多くの人は、「えっ?何のこと?ウチ、せまいし・・・」という反応をするだろうと思います。
 もう少し丁寧にいうなら、ある時期までの人々には素直に祝福と受け止められ、それゆえ聖書の記事が伝承されてきたのに、今日の私たちがそのように受け止めないとすれば、そこには昔日の人々と私たちの間に、物事の考え方や受け止め方に違いがあるということです。

2 我が家の例
 具体例を挙げてみましょう。
 私の息子たちは二人とも30歳を過ぎて、なお独身です。
 私としては孫を膝に抱いている同年配の仲間たちを羨む気持ちはあるものの、だからといって強く結婚を奨めるでもなし、まして私の子孫を大地の砂粒のようにたくさん増やして欲しい、なんて全然思いません。
 つまり、子供は子供、親は親、という個人主義的な考え方にたって、それぞれの人生には干渉できないという判断があるのです。
 しかし、戦前までの日本では民法上も「家」、つまり家督が明記されていて、長男は結婚して家を継承することが当然の義務でしたから、我が家の長男のような人生設計は許されなかったはずです。
 むしろ、かつての多くの家族がそうであったように、多くの子供を設けて、まさに「産めよ、増えよ」の人生を歩んだことでしょうし、私の両親もそれぞれ6人の兄弟姉妹がいました。
 つまり、その頃の人々にとっては個人よりも家が大事であり、その家を守る制度としての社会階級や祖霊崇拝と女性蔑視、また、その秩序を保障する制度としての国家が大事であったと言うことです。

3 社会学的な予備的考察
 この二つの考え方について、ルイ・デュモンは個人主義(Individualism)と全体論(Wholism)との対立として、その著書「個人主義論考」において検討していますが*1、この二つの関係については、例えば次のような二つの極端な考え方を私たちは知っています。
 一つ目の考え方は、個人主義、つまり、個人の幸福の追求が全体の幸福を最大化するのであり、だからこそ、国家や社会(つまり全体)が個人の幸福追求を規制したり、疎外したりすべきではない、という考え方です。*2
 二つ目の考え方は、全体主義(totalitarianism)、つまり、全体の幸福の最大化が、最終的には個人の幸福を最大化するのであり、それゆえ全体の幸福と個人の幸福を比較した場合には、全体が優先するという考え方です。*3
 普通に考えると、どちらも極論であり、子供じみた非現実的な思い込みと誰でも分かるはずです。
しかし、19世紀以降の近代工業社会では、多くの国がこの二つの極論のいずれかに偏った歩みをしてきました。

4 キリスト教は個人主義か全体主義か
 そのような問題意識を前提において、では、キリスト教は個人主義でしょうか、それとも全体主義でしょうか。
まず、「産めよ、増えよ、地に満ちよ。」を祝福と受け止め、そのように伝承してきた歴代のキリスト教徒は、全体主義的な考え方を持っていたと思います。
 つまり、全体を構成する個人の幸福追求よりも、歴史の中で全体が成長し、子孫が「大地の砂粒のよう」に増えて大きな力となり、繁栄することが優先であり、それが最終的には個人の幸福を最大化するという考え方だったと言うことです。
 おそらく、今日我が国で、聖書に接する多くの人たちが、サラとハガルを巡る女性と非嫡出子に対する不当な扱いや、出エジプトにうち続く戦争の描写に強い違和感を抱くのは、その全体主義のゆえであり、私自身も同様の読後感を抱きます。
 そして、そのことは新約聖書の時代においても変化していないことは、イエス様自身が自ら使徒の群を作り育てようとしたこと、また、その使徒たちに聖霊が下って教会を樹立したことが証明しています。
このような信仰の姿は、インドや東南・極東アジアにおける出家や行乞という個人の解脱を追求する姿と好対照をなしています。*4
 また、放蕩息子の例え話ルカ15:11 - 32は、「家」、つまり全体論の最小単位である家族という全体主義的社会から離脱した個人主義者が再び全体主義的社会に統合され、ある種の安心感や高揚感に包まれるさまを「蘇り」と表現していることも、とても印象的な証拠でしょう。
 そして極めつけは「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」マタイ6:33というイエス様の言葉で、イエス様は旧約以来の全体主義の伝統を否定しなかったと同時に、個人の抗不屈級ではなく、神の支配による全体の幸福を追求するよう指示していたということです。
 しかし、全体の幸福のために犠牲になる個人の幸福はどうなるのか。
 その犠牲者は、今、いよいよ間地かに迫りつつある終わりの日に復活する、というのが聖書のメッセージです。
「キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました」1コリ15:20
 全体のために犠牲になった個人とは、つまりイエス様その方であり、その方が復活されたように、終わりの日にはすべての個人が復活して全体の幸福と個人の幸福が同時に、しかもこの世において実現する、というのがキリスト教における救いの完成であると言うことです。

5 この世の支配と神の支配の対比
 しかし、歴史を振り返ると、全体主義的社会はどのような結果をもたらしたでしょうか。
 今、私は軍国日本のために、あるいはナチス政権下でヒットラーのために命を落とした人々のことを思っています。
あるいは、今日の我が国において企業戦士として過労死した人々や、自殺した人々、抑うつや脳血管障害に苦しむ人々のことも思っています。
 そのような人たちのことを思うとき、かつての現人神を頂点とした全体主義国家ばかりではなく、今日でも私たちの社会の中には企業や学校の形を取った、恐るべき全体主義的社会が存在していることに気づかされます。
 そして、一部の特権的な人々を除く、多くの人々が、それら全体主義的社会に奪われている個人の幸福を確保するために、スマホのゲームやSNSの世界に逃れて個人主義的な生活を死守しようとしていると気づかされます。
このような現状認識に立脚すると、この人たちを神の国という、もう一つの全体主義的な社会、つまり教会に招くことは極めて困難であると言わざるを得ません*5。
 しかし、伝道のためであったとしても、神の国の全体主義的性格を否定することは、受難と復活、そして終末の希望を否定することです*6ので、そっちの選択肢はありえません。
 だとすれば、多くの人たちが縛り付けられている全体主義的社会から人々を解放し、神の国に引っ越してきて貰うしか選択肢はない、と言うことになります。
 そのためには、この世における全体主義的な組織は常に人間を崇拝し、人間に奉仕するために築かれているということを人々に宣べ伝え、それは偽の神、偶像の神に仕えること、人間に奉仕して死んでもそれっきりですが、神さまに奉仕して死ねば復活させていただけますよ、そういく認識を与えことに取り組むべきであり、それができて初めて、伝道を始められると言うことです。
 具体的な手立てとしては、人々を会社や学校から解き放つことが第一歩であると考えられます*7。
 例えば、せめて日曜日は学校や仕事を休みましょう、残業は断りましょう、家族という「全体」を大事にしましょう、仲間と団結して「全体」を実現し人間らしい暮らしを要求しましょう、と人々に呼びかけることだと思います。
 また、労働時間の縮減や休日の増加を図るための法改正を提唱することだと思います*8。
経済団体や大規模小売店に日曜日は閉店するよう*9に、またコンビニチェーンには24時間営業をやめるように要請することも考えられるでしょう。*10
 人は、神と人間の両方に仕えることはできないのであり、神に仕えること、神の国と神の義という「全体」に仕えることが、実は「個人」の幸福に最も近い遠回りであると、聖書に基づいて宣べ伝えることから始める必要があるのではないでしょうか。


*1 人間は社会的な生き物であり、それゆえ個人として生きていきたくても全体なしには生きていけないという矛盾を抱えています。社会学の中心的な問題意識はそこにあると思います。

*2 政治による経済の規制を緩和するよう強く主張したフリードマンや竹中平蔵、八代尚宏などの経済学者、小泉純一郎などの政治家がそのように考え方に立っていました。

*3 1945年までの我が国の大政翼賛体制やドイツのファシズム政権、ソヴィエト連邦時代の共産党一党独裁政権などがその典型例です。今日の安倍政権も全体主義的な政権だと言えると思います。

*4 デュモンは「個人主義論考」の中で、初期のキリスト教徒がユダヤ教やその他の偶像崇拝の宗教から離脱する姿や、中世における修道院の形成の背後にそうした出家僧に通ずる考え方を認めてキリスト教こそ、個人主義の萌芽であり、キリスト教が国家宗教となった以降に加速したと述べています。

*5 私の教会始め、おそらく多くの教会の礼拝出席者の大部分は専業主婦や定年退職後の年金生活者です。偶像崇拝の神を放置し、人々がその縄目にとらわれることを許し続ける限り、教会がそのような姿になることは避けられない、と言うことだと思います。

*6 以上の考察から、洗礼の意味は、神の支配のもとにある全体主義的社会、つまりイエス様を長兄とする家族の一員に加えていただくことにあることが明確になります。だとすると未受洗者配餐は、個人の幸福の追求を優先する、悔い改めない放蕩息子の帰宅を歓迎することであり、つまり伝道に全く貢献しないことが明らかになります。

*7 ちいろば先生こと榎本保郎先生が取り組んだアシュラム運動の本質はこの点にあったと思います。アシュラムの語源がインドにおける出家隠遁にあることは示唆に富んでいます。

*8 私としてはフランスの労働法の水準を目指すべき、と考えています。

*9 かつて三崎教会の生野牧師が三浦市に対して日曜日の市民マラソン開催をやめるように要請したという話を伺って、私としては喝采を叫びたい気持ちでした。

*10 労働組合や左派政党との連携を提案するような底の浅い議論をしているつもりではありません。石破茂のような、おそらく極端に個人主義的なクリスチャンも含めて日本のクリスチャンが全員一致して全能の神さまに祈り願えば、彼らのほうからすり寄ってくるようになるのは確実だからです。


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