なぜ「西欧」を相対化しなければいけないか

 お恥ずかしい話ですが、若い頃、素人バンドでエレキベースを弾いていました(今もしつこく夕礼拝で弾いていますが・・・)。

 その頃、中村とうよう氏や小泉文夫氏の書いたモノをよく読んでいて、その影響でいわゆる民族音楽を聴くようになったのです。

 その中で気がついたことは、エレキベースやコントラバス、あるいはピアノのお臍よりやや左側の先の鍵盤のような低い音程を持っている音楽は西洋音楽だけだと言うことでした(*1)。

 また、和声をもっているのも西洋音楽だけで、その結果、固定的な調(キー)や12音階も西洋音楽特有のものである、ということも知るようになりました。

 さらに言うなら、オーケストラやロックバンドのような巨大な音量を響かせる音楽は西洋音楽以外には世界中のどこにもありません。

 そのことに気がついたとき、私たちは日常的に西洋音楽に取り囲まれているがゆえに西洋音楽の特異性に気がつかないように、それ以外の社会思想だとか人生観、宗教観などについても、同様の遮眼帯をいつの間にか身につけているに違いない、と気がついたのです。

 もう一つ、当時は構造主義や記号論が論壇の中心にあって、多くの学生がレヴィ・ストロースやロラン・バルト、ミシェル・フーコーなどを熱心に読んでいた時代でした。

 これらの思想的潮流については片桐ユズル氏が次のように評した言葉が、その意味するところを端的に表していると思います。

 もはや出典などは記憶していません(*2)し、誤った引用かもしれませんが、彼は記号論について「自分の座っている椅子を自分が座ったまま持ち上げようとする」ことだという趣旨のことを書いていたのです。

 正直、上手いことを言うもんだなぁ、と感心したものですが、結局、マルクス主義にしても近代経済学や実存主義哲学も、また、僕らが楽しんでいたロックミュージックも、自分が座っている椅子から見える視界の中に閉じ込められている、ということが実はずっと気になっていたのです。

 だから、デカルトやその時代についての書物を読んだり、社会的の背景を知りたいと思ってブローデルを読んだり、現代文明批判としてイリイチを読んだりしてきましたし、それは結局は、西欧とはなにか、を知りたかったからです。

 ただ、現時点の問題意識としては、例えばモルトマンが、あるいはデュモンが、また恐らくその他の多くの研究者が第2次大戦の悲惨な経験、というよりも、民族的な「罪」の意識が原点にあって、西欧の相対化に取り組んでいる点を強調したいと思います。

 実は、私が学生のころにはシュールレアリスムやダダイズムなどが私たちの注目を引いていました。

 これらの芸術運動は第1次大戦の悲惨な経験を踏まえて生まれた運動でしたが、哲学や神学の世界では、この悲惨な経験から学ぶところが少なかったように思われます。

 そういう後悔の念が大陸系の学者には広く共有されていると感じています。

 しかし、日本全体としてそうした問題意識、というよりも罪の意識がかけているのではないか、と感じていますし、それを受けて日本の教会にも、さらなる悔い改めが必要なのではないかということです。

 僕は何もいまさら戦責告白をどうこう言おうというのではありません。

ただ、神奈川教区総会などを見るにつけ、誰もが自分の正義を主張するばかりで、見えない方を見ようとする姿勢、聞こえない方に耳を傾けようとする姿勢が感じられないし、そんなことでは戦責告白を百万遍となえても、絶対に悔い改めなんかは与えられない、と断言できると思います。

 僕のような一信徒に何かができるとは思えません。

 しかし、学ぶことはできるのであり、主がその時間を与えてくださる以上、学んでいきたいのです。


*1 モンゴルやチベットの音楽には例外的に重低音の男性コーラスがありますが。
*2 現代詩文庫の片桐ユズル詩集だったような記憶がありますが、間違っているかもしれません。



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