「お互いさま」「今のままでいい」への転換


 ルイ・デュモンの「ホモ・ヒエラルキクス」を読みました。

 以下に私なりの本書の理解を述べた上で、今の日本の教会における伝道について述べてみたいと思います。

1 発展史観と復元史観

 本書は、基本的にはインドのカーストを論ずる本ですが、彼の問題意識は近代西欧社会が「ヒエラルキー」を無前提に社会悪と評価する結果、その肯定的で社会にとって大切な意義を見失っている、という点にあると思います。

 つまり、近代西欧社会には「否定」と「否定の否定」が対立し弁証法的に止揚されることを繰り返しながら発展するという考え方があって、「ヒエラルキー」を社会悪とする考え方はそれと表裏一体である。

 しかし、インドのような非西欧社会においては、対立する2項の一方が他方を包摂して、相補的な関係に立つとともに、そのような関係を安定させる機序があって、それは複数の「次元」からなる「ヒエラルキー」である、と考えているのです。

 つまり、変化を続け、立ち止まることが許されない不安定な西欧社会と、強い復元力を持って安定している非西欧社会の違いを生む原因を「弁証法」対「包摂と相補」にあると主張している、というのが私の読み方です。

 もっと自分流の言い方を許していただくならば、「自己主張」の社会 VS 「お互いさま」の社会、あるいは「変化」する社会 VS 「今のままでいい」社会の違いと言うことだと思います。

2 伝道にどう生かすか

 本書を読む中で「典礼論争」という未知の言葉に出会えたことは、とても感謝な出来事でした。

 Wikiによると、要するに17世紀にイエズス会がアジア伝道を展開する中で、アジアの風俗習慣や社会階級を尊重して大きな成果を上げるなかで起きた論争のようです。

 例えば、日本で言えば、大名には大名の、民百姓には民百姓の、それぞれの立場や習慣、伝統的な祖霊崇拝や権力者への立ち居振る舞いなどがあるはずなので、それらと衝突しないように伝道する戦略をとったところ、キリスト教の典礼を貶める伝道であるという批判と論争が起こった、ということらしいのです。

 最終的には教皇庁が現地の文化や典礼に迎合するような伝道のあり方を否定する文書を出して論争は決着したようですが、この結果、アジア伝道が停滞し、日本では禁教、殉教に結びついたとすれば、なかなか、悩ましい問題だと思います。

 私としては、今更、典礼論争を蒸し返すべきだと言いたいのではありません。

 しかし、非西欧社会の残滓がまだ日本にあるなら、つまり、「お互いさま」「今のままでいい」と言い合うような復元力のある社会に立ち返る余地があるなら、教会はそのことに希望をつないで伝道を展開することも一つの選択肢ではないか、と思ったのです。

 例えば、教会に通いたいけれどご主人の代々のお墓がお寺さんにあって自分もそこに入ることになっているから、と言って躊躇される方がおられるというのは時々、耳にするところです。

 あるいは、ご家族の意向で仏式で葬儀・埋葬された教会員について、伝道上の瑕疵であると牧師を攻撃する教会員がいたことも事実です。

 私自身、職場の先輩のご葬儀では皆さんと同じようにお焼香をして両手を合わせて拝みます。

 教会として、日本の伝統的な価値や典礼、家族制度をどのように包摂していくのか、現人神に屈した戦争責任をそのような視点からどのように再評価するのか、「お互いさま」「今のままでいい」という非西欧的な制度と価値を再評価する「神学」を提示することが今後の伝道には必要ではないか、と思いました。

【参 考】
J.モルトマンは、私のような一般の読者向けの著書「終わりの中に始まりが~希望の終末論」の中で祖先崇拝について一項目を設け、旧約聖書における系譜の重視などを根拠に、その救済的な意義を検討しつつ積極的な評価を与えています。
また、J.エリュールは最も古い弁証法が旧約聖書に見られると述べていましたが、彼はそこに発展や変化を見ると言うことではなく、神の奇跡と救済による社会の復元を見ていたのだと思います。




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