なぜパンを石に変えてはいけないのか~技術と信仰のお話

 マタイ福音書の最初のほうに、悪魔がイエス様に向かって石をパンに変えるように誘惑したお話が出てきます。

 私たちは通常、このお話を、なぜイエス様は石をパンに変えなかったのか、という観点で理解しようとしますし、それは後続するイエス様の発言がそのように私たちを導いているからなので、正しい理解だと思います。

 しかし、それとは別に、人間となった神の子イエス様には石をパンに変えることが許されていなかったのではないか、と最近、思っているのです。

 一つには、石を石にお作りになったのは神さまの天地創造の働きであるから、それを人間の都合で勝手にパンに作り替えてはいけないのだ、と言うことがあると思うのです。

 原子核を勝手にたたき割って大きなエネルギーを取り出して発電していたら、想定外の大地震が起きて、広大な周辺地域が不毛の地になってしまいました、と言うお話。

 羊水を使って出生前診断を行ない、障害者が生まれる前に堕胎してしまうことが広く行なわれるようになりました、というお話。

 やっぱり、人間が勝手に石をパンに変えてしまってはいけないという教訓めいた話はたくさんあるなぁ、と思うのです。

 しかし、それらのお話は単なる現象面、つまりあくまでも目に見える世界のお話に過ぎない。

 もっと大事なことは、石をパンに変えられないからこそ、私たちには特別な力が与えられていたはずだ、と言うことです。

 天地創造の業が「きわめて良かった」というのは、そういう意味だと思うのです。

 それは、例えば空腹に耐える力。

 戦争中の物資不足の時代を僕らの祖父母や両親はよく凌いだと感心しますが、今の私たちにその力は残されているでしょうか。

 あるいは長距離を歩く力。

 お恥ずかしい話ですが、ローティーンの頃、「奥の細道」を読んで一番感心したのは、東北一周の旅をよくぞ自分の足で歩き通したもんだ、と言うことでした。

 あるいは限りあるものを分け合う力。

 福音書には5000人給食や4000人給食の話が出てきますし、初期の教会が財産を分かち合って信仰を守ったことも書かれています。

 それに、そもそも教会はいつの時代もみんなで献金を出し合って支えてきたわけで、まさに限りあるものを分かち合う力の代表選手だったはずです。

 でも、今、あちこちで石をパンに変えてみせる魔法が行なわれる世の中になってしまって、わたしたちの分かち合う力も衰えてしまっているのではないでしょうか。

 同様に、祈り、感謝し、喜ぶ力も衰えてしまったのではないでしょうか。

 喜ぶ力が衰えたら、より強くて激しい刺激が継続的に与えられなければ、喜ぶことが出来ないでしょう。

 感謝する力が衰えたら、コップ一杯の水では感謝出来ず、琵琶湖よりたくさんの水があっても感謝出来ないでしょう。

 祈る力が衰えたら、もはや希望とは何かを想像することすら難しいでしょう。

 そのように考えると、このお話を石をパンに変えてはいけない、というイエス様からの貴いご指示として受け止めるべきではないか、という確信が強く与えられます。

【念のため】

 教師の福音理解に異を唱えることが本稿の目的ではありません。

 上述のような社会や文明を批判するメッセージを送ることは、そもそも教師の仕事ではありません。

 あくまでも福音を語ることが教師の召命であり、文明批判なら私のような教会員でも十分に出来ることです。

 教師が教師の召命を離れて社会活動や政治活動に熱を上げるのは職務専念義務違反です。

 マザー・テレサの様な献身者は教師ではなく、献身の働きに召命されていたのです。

 しかし、教会の教師として召命されているなら、福音伝道に専念する貴い義務が与えられているのであり、信徒は、教師がそれに専念出来るように献金を含めて社会的、政治的、文明批評的な、目に見える世界に関する働きを担うのだと思っています。

 教師には教師の働き、信徒には信徒の働きがあると言うことです。

 神さまには神さまの働きがあり、イエス様にはイエス様の、聖霊には聖霊の働きがあって、しかし、愛において一致しているように。



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