いわゆる「フリー聖餐」に思うこと


 神奈川教区では、いわゆる「フリー聖餐」(*1)を行う教会と、これを認めない教会が分かれています。

 正直、一教会員としては「そういう難しい話は先生方で勝手にやって下さい」と思ってるし、そもそも、イエス様はフリー聖餐を行ったとしても、なにか仰るような方ではありません。

 しかし、教会の役員としては、フリー聖餐?ちょっと違うんじゃない?と思います。

 聖書を読み、讃美歌を歌い、パンと杯を分かち合うだけなら、それは教会ではなく、単なる勉強会、集会(*2)にすぎません。

 そして、単なる集会なら、ユダヤ教徒だってイスラム教徒だって、お寺さんだって共産党だって熱心に行っています。

 しかし、教会とは、悔い改めてイエス様の恵みに従います、と告白した者の集まりであり、だからこそ、求道者が訪れてくるのです。

 さぁ、ここからが本論です。

 私たちクリスチャンは日々の暮らしの中で、ダイナミックに、繰り返しイエス様と向き合っています。

 そして、聖餐とは、そうした暮らしのなかでイエス様に従い切れない自分をそれでもなお許して、御許に招いて下さるイエス様の恵みを確認する大切な時間です(*3)。

 もちろん、イエス様の「許し」の恵みは無条件に、一切の前提を求めることなく、与えられます。

 しかし、悔い改めのない者には、その「許し」の恵みそのものを味わうことが出来ないでしょう。

 だとすれば、悔い改めを告白していない者に杯を与えることは、逆にイエス様の恵みに至る道を閉ざすことになります。

 もちろん、イエス様は私たちの思いもよらないような仕方で、繰り返し聖餐を受けてきた未受洗者に悔い改めをもたらすこともお出来になります

 しかし、だからといって、あえてイエス様を試みるようなことをして、何の意味があるのでしょうか。

 それに、その時のイエス様が、ご本人にとって一層、厳しい、苦しい試練を与えるかもしれない、そうなったときに、その教会の役員会は責任を負えるんでしょうか。

 それゆえ、私は一教会員としてならともかく、役員としては、フリー聖餐は「やってはいけないこと」だと思っていますし。

 フリー聖餐をなさっている教会の役員さんたちも教会のために一生懸命、奉仕されているだろうに、非常に大切なところで、私どもの教会と違う意見や見解を持っておられると思うと、いささか残念で悲しい気持がします。


*1 ちなみにここでは「フリー聖餐」と言う言葉を、洗礼を受けていない人や信仰告白を行っていない人、以下では「未受洗者」と言いますが、そうした人たちが聖餐に与ること、という意味で使います。


*2 新約聖書にある「教会」のギリシャ語は「コイノニア」、つまり「集会」を意味する言葉であることは承知しています。

*3 マタイによる福音書26章 27~28節「また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。「皆、この杯から飲みなさい。 これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」

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