貪欲は偶像礼拝にほかならない~コロサイの信徒の手紙3章5節

 神社のご神体と言えば鏡や刀、お札だったり、お寺のご本尊は勿論、仏像ですが、普通の人が普通に考えれば、そんなものに何かの力があるはずはない、と分かるはずです。

 しかし、ならば私たちを守り救ってくれる存在はどんな方であるかと考えると、大抵の人は恐ろしくなるか、鬱陶しい気持になるだろうと思います。

 なぜなら、私たちを守り救う方は、私たちになんらかの義務や奉仕を求めるはずであり、まさか無償で私たちを守ってくれたり、救ってくれるなんてことはないだろう、と普通は思うからです。

 だから、私たちはせっかく鏡や木像が私たちを救うのではないという正しい認識に達したのに、そこからいきなり後ろを向いて本当の神様に背を向け、私たちの目に映るものしか信じない、そして私たちの望むままに、自分の貪欲な気持に従って生きていきたい、という方向に心が向かう結果になります。

 しかし、まず貪欲という偶像をうち捨てなければ、神様の前に出ることは出来ないのでしょうか。 
 
 とんでもない!

 だいたい、私自身、クリスチャンですが、貪欲という偶像礼拝を捨て去っているとはとてもいえません。

 お酒が好きだし、温泉も好きだし、いろんな音楽を探し回ってはみんなに教えてあげることが好きだし、という訳で、貪欲という偶像礼拝を捨て去っているなんて、口が裂けてもいえません。

 しかし、そういう自分が神様とイエス様、そして聖霊の働きなしには、ひたすら滅びの道に落ちていくと言うことは聖書を通して教わったし、三位一体の神様が必ずや、そういう私を作り替え、救いの道に導いて下さると信じています。

 偶像礼拝を捨て去ることや貪欲を捨て去ることは、神様に会いに行くための条件ではありません。

 そんなことを言い出したら、誰も教会の玄関をくぐれないでしょう。

 イエス様の復活を信ずること、それも神様に会いに行くための条件ではありません。

 神様に会いに行くための条件は何一つありません。

 貪欲という偶像礼拝から解き放って下さるのは、神様の力のみであり、自分の力では絶対に無理な相談だからです。

 ただ、教会に行って賛美の群れに加われば良いのです。

 そして、そこからすべてが始まります。



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