聖書の家畜の話


1 牛の話

 先日読んだ論文*に、現代アフリカの農村において定着農耕民が牛を飼う目的は農耕用の畜力として、つまりガソリンスタンドも整備工場もない環境ではトラクターは使えないので、畑を鋤き起こしたり、焼き畑の燃えかすを鋤き込んだりするためには牛の力が必要だから、という説明がありました。
 また、半農半牧の人びとの場合は、やがて一族が拡大した場合や、天変地異に備えて貯蓄と利殖をかねて牛を飼っていると言うことでした。
 そのような報告を踏まえて箴言14:4b「豊作をもたらすのは牛の力」を読むと、なるほど旧約の民は牛を食用ではなく、むしろ農耕用の畜力として、あるいは貯蓄と利殖のために飼育していたことがうかがえると思います。

2 山羊の話

 そのような理解にたった上でルカ15章の放蕩息子の記事の終わり近く、長男が父親に不満を述べる箇所を読むと、どうみえるでしょうか。

 長男は言います、自分には「子山羊一匹」すらくれなかったのに、弟には「肥えた子牛」を屠ってやった、と。

 つまり、牛は成牛になるまで飼育して畜力として用いることも出来るし、交換に供することもできる、もちろん、子牛のうちなら美味しくいただくことも出来る重宝で貴重な動物であり、こともあろうに放蕩息子の帰還を祝うために、いわば一族の貴重な財産を惜しげも無く費消しておやりになる。

 しかし、子山羊はどうか。山羊肉は、例えば沖縄では伝統的なヒージャー料理として食されているものの、ウチナンチューの間でも好き嫌いのある独特の食材のようですし、おそらく旧約の民の間では山羊は乳と燃料用の糞を得るために飼われていて、食用にするのはごく困窮した場合だけだったと思われます。
 天国に行く民を羊、滅びに赴く民を山羊に例えているのも、そうした生活実感があってのことでしょう。

 だから、長男の言葉を繰り返して今風に翻訳するなら、弟の帰還には何百万もする新車のトラクターを費やしても惜しまないのに、自分のためには、安物のおんぼろ軽トラすら惜しむ、あまりにも酷いでは無いか、ということあって、普通に考えるならば同情を禁じ得ない訴えだと言えるでしょう。

 一体、ルカはこの話を通して、何を伝えたかったのか、ますます考え込まざるを得ませんし、ひょっとすると、実はもともと別々だった話を無理矢理に繋げた結果、こういう矛盾が生じているのかもしれません。

3 羊、豚、鶏の話

 蛇足ながら、羊、豚、鶏です。

 牛も山羊も食用では無かったとなると、食用に飼育されていたのは羊と言うことになるでしょう。

 だから、出エジプトの過越の故事に登場するのでしょうし、受難のイエスを子羊に結びつけることも、その生活実感からしても、ごく素直な連想だったのだろうと思います。

 一方、世界的に見ると豚を食用に飼育する地域はたくさんありますが、旧約では豚は汚れた生き物であり、彼らの間で食用に飼育されていたとは考えられませんし、新約聖書に豚の群れが登場する場合、その地方の人びとが律法の民では無かったという事情を伝えたかった意図があってのことなのでしょう。

 なぜ、豚を忌避したのかは分りませんが、ひょっとすると半農半牧を生業とする旧約の民にとっては、移動速度が遅い豚は飼育しにくい動物だったのかもしれませんし、逆に定着農耕民との違いを明らかにする意図があったのかもしれません。

 そして、最後は、鶏ですが、旧約にはヨブ記と箴言に一カ所ずつ登場するだけ、新約では例のペトロの裏切りの所に登場するだけです。
 当時としては異文化からもたらされた珍しい生き物だったのかもしれませんし、そう考えるとペトロの話も作り話めいてきますが、この点はもう少し調べてみようと思います・・・美味しい鳥ソバでもいただきつつ。

争わないための生業実践: 生態資源と人びとの関わり (アフリカ潜在力) - 眞義, 重田, 樹一, 伊谷

*「アフリカ潜在力 4 争わないための生業実践」(京都大学学術出版会)所収「第1章 富者として農村に生きる牧畜民―タンザニア・ルクワ湖畔におけるスクマとワンダの共存」、泉 直亮氏による報告。

posted by いとう しんご at 08:34Comment(0)

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