「貧しい人びと」とは誰か(前編)


1 序列化する言葉

 「御社・弊社」という言い方は私の若い頃からビジネス文書では広く用いられていて、主にメーカー系の企業に広がっていたような印象だったので、ことによると日本の近代化、工業化の初めに産み出された言い方かもしれません。
 だとすればなおのこと、顧客との間の上下関係、序列を明らかにする意図で生み出され、用いられてきた言い方に違いありません。

 一方、「~~させていただく」という言い方は遙かに新しいものですが、このような敬語が2重に重なった言い方が広がった背景には、クレーマーとかモンスターと言われるような理不尽な要求に固執する人びとが増えてきたことへの対策として、とりあえず顧客との序列を明らかにし、予防線を張りつつエスカレートを抑えたいという意図があったように思われます。

 ちなみに、そうした序列化する言葉は、例えばフランス語やドイツ語における二人称単数と複数の使い分け(家族や友達は単数、社会的地位の高い人には複数)や条件法や接続法による婉曲表現などにも見られますので、日本人が取り分けて卑屈ということではありません。
 むしろ、どこの国、いつの時代でも、その社会に一定の序列が存在する限り、その序列を言葉において明らかにするよう促す圧力が常に働いていると考えるべきでしょうし、そのような圧力の元で「~~させていただく」というような新しい表現も生まれてくるのです。

2 産み出される言葉

 現代人が体調が悪ければ薬を飲み、病院に行って科学と技術に助けを求めるように、古代人は伝統的な薬草鉱物や療法、おまじないなどを試みた上で、最終的には超自然的な存在に助けを求めに行きました。

 つまり、現代において科学と技術が大きな権威を持つように、古代にあっては超自然的存在が大きな権威を持ち、社会の序列はそうした存在を頂点として築かれていたと言うことです。

 そして、現代においても古代においても、そうした権威が人びとを救うとは限らない以上、ある人びとは権威を見限るでしょうが、ある人びとは権威を一層、高みに押し上げることで自らの救済と利益を守り抜こうとするでしょう(トランプ大統領の敗北の際に米国議会に押し寄せた支持者たちはまさにその典型例でしょう)。

 さて、そうした人びとが神についての言葉を産み出し続ければ、権威とその下にある序列をより明確化するような言葉遣いが、冒頭の例のようにだんだんとエスカレートして行き、長い間には自己卑下の文学的修辞の競い合いを産み出すに違いありません。

 そして、実際、旧約聖書を読むと、そうした具体例に事欠きません。特に、最も文学的な修辞にあふれた文書である詩編にはそうした極端な例がたくさん見られます。
 例えば、「神よ、私は貧しく、身を屈めています」(70:6a)。
 宮殿に夫人や側室を多数囲っていた王様ダビデが貧しいはずは無いのに、神の前では自己卑下の修辞で自らを飾るのです。
 あるいは有名な「主は羊飼い」という言葉で始まる26編では「あなたの鞭、あなたの杖/それがわたしを力づける」と自らを家畜にまでおとしめる修辞が用いられています。
 さらに激しいのは「わたしは虫けら、とても人とはいえない。人間の屑、民の恥。」(22:7)で、古代の文学に特有な白髪三千丈的誇張を越えた、ほとんど執念のようなものを感じさせます。
 そして、そうした自己卑下はしばしば「神よ、あなたの裁きを望みます。わたしに代わって争ってください。あなたの慈しみを知らぬ民、欺く者/よこしまな者から救ってください。」(43:1)という呪いによって背後から支えられていることも見逃しには出来ません。

 同様の修辞はヨブ記にも、たくさん見られますし、列王記におけるいくつかの祈りを見ても、その傾向は同じです。

 つまり、本音では自分の会社は相手の会社の有力な取引先であり優越的地位にあると思っても「弊社」と言う言葉遣いをするように、あるいは、心の中では「やってやるよ~」と思っていても、口では「~~させていただきます」と言うように、そして、そういう言い方をすることが現代日本の常識だからということで口先だけの言葉遣いが横行するように、旧約聖書の世界では、他人よりさらに強い表現で神の前に自己卑下することが、当時の常識的振る舞いであったのであり、神に対してよりも周りの人びとに敬虔ぶりをアピールすることが大切だったのかもしれません。

 そうした醒めた視点を抜きにしては、旧約聖書を正しく読むことは出来ないと思います。

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