「ヨナのしるし」を考える

 フランスの哲学者、J=P・デュピュイは著書「ありえないことが現実になるとき―賢明な破局論にむけて 」の中でドイツの哲学者、ハンス・ヨナスを引用しながらヨナ記について言及しています(ヨナスは未見)。

 環境破壊や世界的な格差拡大の結果、例えば9.11や3.11のような危機がやがて必ず起こることを私たちは知っているのに(そして現にコロナ騒動の渦中にあるのに)、何をすべきかを論じてみても何もできない私たち、という矛盾した現実は、神がニネベを救うと心に決めているのに、ニネベの裁きを預言するために遣わされるという矛盾に困惑し煩悶するヨナの姿に通ずるモノがある、という議論です。

 この視点に立つなら、ヨブ記の主題はニネベの悔い改めにあるのであって、大魚の奇跡は、あくまでもニネベを悔い改めさせたい、滅びから救いたいという神の強い意図を示す挿話として読むべきであり、マタイが書き残したイエスの発言=「ヨナのしるし」(マタイ16:4)は、あの宿敵バビロンの首都ニネベでさえ悔い改めれば、滅びを免れたのに・・・と読む方が適切ではないか、と思うのです。

 逆にもし、大魚の奇跡、つまり三日三晩の後の復活の預言、という意味に取ってしまうと、ルカ11:29の並行箇所他との整合性がややこしい話になるし、ヨナの預言がイエスの復活で成就してしまっては、ヨナスやデュピュイが論じたような今日的な意義を失ってしまいます。

 「そもそも論」をお許しいただけるなら、7月7日の記事でも述べたように、イエスの発言には常に重層的な意味があって、この発言も、大魚の奇跡とニネベの悔い改めの少なくとも二つの意味があったことは間違いないだろうし、50年後、100年後のキリスト者はさらに新しい(深刻な?)意味を読み取っているかもしれません。

 けだし、イエスが「耳あるモノは聞け!」と何度も叫ばれたのは、その発言の意味するところの重層性のゆえであり、にもかかわらず愚かな弟子達はその一部だけを聞き取って「弟子達にだけ解き明かした」と自慢したり、逆に「パン種」*を勝手に「教え」に読み変えて(マタイ16:12)矮小化しているのだろう、と思うのです。

 だから、この聖書箇所について大魚の奇跡に注目を促したことは、ヨナ記が持っている、今日を超えて伸びている無限の射程を断ち切ることになるのではないか、と思ったのです。

 もし、私たちが22世紀まで御言葉の残していきたいなら、今、その可能性を私たちの恣意的な理解の中に閉じ込めてはいけないのではないか、と思います。

*日本聖書協会のサイトで「酵母」を検索すると、祭壇へ献げるパンは無酵母が原則で、レビ23:17だけが例外です。イエスがパン種と言ったときに、レビ記の例外も含めて、そうした律法の規程を念頭に置いていたことは確実だったと思います。ただし、福音書があえて的外れの理解を書き残したのは、ファリサイ派やサドカイ派などの干渉の結果、イエスの教団が5000人給食の時の12のカゴが示す12人の弟子達の体制から、4000人給食の時には7つのカゴ、つまり7人の体制に縮小していたことから読者の目を逸らしたかったからかもしれません。


ありえないことが現実になるとき ――賢明な破局論にむけて (ちくま学芸文庫) - ジャン=ピエール・デュピュイ, 桑田 光平, 本田 貴久
ありえないことが現実になるとき ――賢明な破局論にむけて (ちくま学芸文庫) - ジャン=ピエール・デュピュイ, 桑田 光平, 本田 貴久

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