イエスの言葉は2人称単数?2人称複数?


 大きなホールのステージから人気歌手が集まったファン達に「ノッテルカ~~イ」と呼びかける言葉の主語は、2人称単数でしょうか、複数でしょうか。
 
 時として、両手を広げてファン全体に呼びかける場合もあるし、特定のファンに目線を合わせて語りかける場合もあるでしょうし、人気歌手ご本人の演出的な狙いも様々でしょうから、その言葉をいちいち取り上げて、単/複を切り分けようとすること自体、無意味だと思います。

 同様に、キリスト・イエスの周りにも弟子達や群衆がいたはずであり、その発言のいちいちについて、二人称の単/複を論ずることは無意味であって、そこには常に二重の意味があると考えるべきでしょう。

 その背景には、人は常に社会の中で生きているのであり、単数の人に語りかけても、社会全体の力を借りなければ、その人が変っていくはできないし、逆もまた真である、という事情が伏在していたことは言うまでもありません。

 別の言い方をするなら、個人と社会が対立しつつ対話することが社会の常態であるから、いずれか一方にのみ語りかけても意味がない、ということでもあるでしょう。

 だから、キリストの発言を聞く場合には、単数の人に対する語りかけと、複数の人、つまり一つの群れとして社会を構成している人々に対する語りかけの両方を聴かねばならないのです。

 しかし、それは具体的にはどういうことでしょうか。

 そもそも、私がそんなことを考えはじめたのは、大好きな放蕩息子*の物語を読んでいたときでした。

 私はかねてから、放蕩息子とオマエのことだ!というイエスの語りかけ、つまり私に対する二人称単数の声をそこに聞き取っていました。

 しかし、それでは長兄と父親の発言がどうしても整合的に理解できないのです。

 ところが、放蕩息子とオマエのことだ!イスラエルの民よ!という二人称複数を二重化させて聞くと理解が一変します。

 財産を半分蕩尽したというのは北王国の滅亡のこと、放蕩の限りを尽くしたとあるのは預言者達が繰り返し指摘した姦淫や淫婦のこと、豚の餌を食う境遇まで落ちぶれたというのはローマ人やイドマヤ人などの異邦人の支配下に転落したこと、そして長兄とはファリサイ派や律法学者のことであり、口先では父親に従いながら、腹の中では不平不満が渦巻いている、と考えるととてもすっきり理解出来るのです。

 そして、そのような神なきイスラエルの民全体(ファリサイ派も含めて)をまとめて赦し、神の国に入れようとする父親、つまり真の神の姿を発見したときにこそ、この話の本当の恵みを見いだせる、と思ったのでした。

 そして、そのような恵み、つまりキリスト・イエスの言葉の中にある二重性、すなわち個人と社会の対立を対話的に止揚する神の働きに、まず教会が気づかされ、悔い改めて向き合い直したときには、私達が社会に向かって発言するまでもなく、社会の方からイエスの言葉を聞きに訪ねてくるのではないでしょうか。

*ルカ15:11以下。

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