礼拝休止についてとても偏った意見


1 設問の誤りについて

 評価不能なリスクを前に、進むか、引き返すか、という選択をしたら、当然、引き返すという結論しか出ないはずだ。

 一寸先が闇なのに、無闇に進むのは愚か者である、と誰もが考えるだろう。

 しかし、本当にそうだろうか。

 例えば、車を運転するときに、そのリスクを完全に評価することは不可能だ。

 しかし、それでも多くのドライバーは始業点検を行い、周囲の車や歩行者の動向に注意を払いながら運転する。

 つまり、私達は評価不能なリスクがあるからと言って、いちいち、進むか否かを問うのではなく、リスクをいかに回避するかを考えて行動している、ということである。

 だから、新たな評価不能なリスクが出現したからと言って、進退を問うのは、設問そのものが誤っていたのであり、そこから導かれる結論が誤ったモノになるのは当然である。

 まして、今後の状況の推移によっては再び、進退、すなわち礼拝休止を論ぜざるを得ないと主張することは、同じ過ちを繰り返す愚を犯すことである。


2 残念な一般論

 余談ではあるが、なにごとも、やらない理由を考える方が簡単である。

 まして、人は易きにつきやすいという一般的な傾向があるなかで、評価不能のリスクを目前にして、進むべきか、引くべきか、どうしようか・・・という白紙の議論を始めたら、危ないから止めておこうという結論になるのは、当然である。

 ちなみに、そこにあるのは、飽くまでも評価不能なリスクの筈なのに、それを隣人愛に結びつけて判断形成を試みるのは、一寸先の闇はすべて断崖絶壁であると盲信するに等しく、理にかなわない考え方である。

 まして、教師と役員だけで礼拝を守るという考え方は、礼拝から排除された兄弟姉妹を顧みない自己中心的な考え方である。


3 聖書を忘れた議論

 そもそも、キリスト者は、常に評価不能なリスクに直面しているはずだ。

 神の国は近づいた、悔い改めよ、とイエス・キリストは教えている。
 また、その日は盗人のように突然にやってきて、予期出来ない、とも教えている。

 その日がやってきたとき、隣人愛をどう実現するかは、もっぱら神にお任せするしかないし、それどころか、この自分が滅びに落とされる可能性だってあるのだ。

 なのに、評価不能なリスクがあって、一寸先は闇で何が起こるか分らないとか、隣人愛に反する結果を生ずるかもしれないとか、と言い始めたら、一体、我々はいつ礼拝するのか。

 みんなで礼拝を守っている間にも世の終わりが来るかもしれない、危ないから礼拝を守るのを止めよう、というキリスト者がいたらどう思われるだろうか。

4 真理とは誰か

 私は論理的な推論や理にかなった議論だけが私達を真理に導き、理性だけが神の義を明らかにするなどと主張するつもりはない。

 なぜ、真理が私達の作り出した言葉や論理や整合性の檻に囚われなければならないのか。

 正しい方、善い方は主のみである。

 しかし、神は御心を聖書の言葉、つまり人間の言葉で告げ知られようとしている。

 さあ、お尋ねしたい、言葉の導きに従って冷静な理性を用いて推論の道を辿ることが、必ずや義を明らかにすることを保証しないとしても、一体、他にどのような道を辿るべきとお考えか。

 あまねく与えられた思索の道筋を捨てて、例えば神秘主義的思考や、徹底的な背理法的推論形式(否定神学?)を追求することも考えられるけれど、現下の礼拝休止という課題について、そのような議論を構築された方は管見の限りおられまい。

 むしろ、もっぱら恐怖にかられてサタンの手玉に取られた多くの教会と兄弟姉妹の姿ばかりが見えてくるように思うのだが、逆に言うなら、そのように考える私は著しく偏向した考え方の持ち主であり、相当頭のオカシイ人なのかもしれない。



ありえないことが現実になるとき―賢明な破局論にむけて - ジャン=ピエール デュピュイ, Dupuy,Jean‐Pierre, 光平, 桑田, 貴久, 本田
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