腹は借り物・・・


 昨日、ある古い文書*を読んでいて突然気がついたことがあったのです。

 今日、私達はみな、父親と母親の両方の遺伝情報を受け継いでいるということを知っています。
 つまり、女性の体内に男性の精液が浸入しただけでは子どもは生まれない、女性の卵子と結合してはじめて妊娠が始まる、とみんなが知っているということです。

 しかし、近代以前においては、妊娠は男性の「種まき」だけで開始され、女性の身体は単なる「畑」に過ぎないという認識だったはずです。

 だからこそ、跡取りを欲しいと思ったアブラハムにとっては、サラによる子どもであろうが、ハガルによる子どもであろうが、どっちでも良かったのです。

 また、ソロモンの母親、つまりバト・シェバは恐らくヘト人であって、ユダヤ人の中では地位の低い人であったはずなのに、父親があくまでダビデだからこそ、他の兄弟と並んで王座を目指した競争に参加できたのでしょう。

 かつての日本には「腹は借り物」という言葉がありましたが、アブラハムにとってもダビデにとっても後継者を確保という意味では、女性は単なる「畑」、その腹は「借り物」だったということでしょう。

 では、聖霊によって受胎したイエスをどう考えるのか。

 大変、冒瀆的な言い方ではありますが、今日の私達ならイエスの細胞に含まれる遺伝情報の半分は聖霊由来だけれど、残り半分はマリア由来と考えるでしょう。

 そして、イエスの細胞にあるミトコンドリアの遺伝情報は私達の細胞にあるそれと同じミトコンドリア・イブに遡ることが出来ると考えるでしょう。

 しかし、上述のごとく、古代人はそうは考えないはずであり、イサクもイシュマエルも母親こそ違え両方ともアブラハムの子どもであるように、イエスの母親は「人間」の女性だけれど、その腹はあくまでも借り物であって、父親は聖霊、その子どものイエスもその実態は聖霊である、と考えるでしょう。

 だとすれば、我々が目にしたイエスが「人の子」として地上を歩いた姿は何だったのか、本当に我々みんなと同じ肉の体をまとっていたのか、十字架から取り下ろしたその亡骸は、結局は神が作り出した幻想に過ぎなかったのではないか、と疑うのもやむを得ない、と言うことになります。

 その後の教父たちや神学者達がこの難問に頭を悩ましたわけが、そう考えると非常に納得しやすくなりますし、今日でも、もしイエスの誕生にマリアの卵子は一切、関与していない、イエスの肉体には細胞などなく、当然、遺伝情報もなかったのだ、と主張する人がいれば、私達は再び古代の人たちと同じ難問に直面することになるでしょう。

 古代人にとっては極めてヴィヴィッドだった問題が、今日の私達には分りにくくなっているのですが、上のように考えていくと、その問題の所在がより明白になるように思えて、とても興味深いと思いましたので、書き残してみました。

 ところで、この問いを目の前に開いたままにして、4つの福音書の処女降誕の記録を見比べるとなかなかに味わい深いものがあります。

 そのことに一切触れようとしないマタイとヨハネ、ちょっとだけ書き残したマルコ、延々と叙述するルカ。

 それぞれの福音書を産み出し、継承した教会は、この問題についてどのような議論を行い、どのような合意と意図を私達に伝えようとしたのでしょうか。

 読めば読むほど、学べば学ぶほど、聖書は万華鏡のような書物だと実感させられるのでした。

*その文書は「中世思想原典集成 精選 1」所収のユスティノス「ユダヤ人トリュフォンとの対話」(一部抜粋)です。
中世思想原典集成 精選1 ギリシア教父・ビザンティン思想 (平凡社ライブラリー) - 上智大学中世思想研究所
中世思想原典集成 精選1 ギリシア教父・ビザンティン思想 (平凡社ライブラリー) - 上智大学中世思想研究所

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