預言者イエス?


 「預言者は故郷では尊敬されない」という趣旨のイエスの発言は、共観福音書すべてに残されています。
 だから、イエスがそのような発言をしたことは確実ですが、だとすると次なる疑問はイエスが自分を「預言者」だと思っていたのか、という点になります。

 一つ仮説を立てましょう。
 メシアと預言者はまったく違う、という仮説です

 つまり、もし、イエスが自分を預言者であると言い表したのなら、同時に自分はメシアではないと言い表した、という仮説です

 この仮説の妥当性を検討するとどうでしょうか。

 旧約聖書にはたくさんの預言者が登場しますし、新約にも洗礼者ヨハネが登場します。
 使徒パウロにいたっては、私のような平信徒に向かっても預言者となることを求めています。

 もし、預言者がメシアなら、聖書にはたくさんのメシアが登場していた、ということになってしまいますし、将来に渡って無数のメシアが登場する可能性を残すことになります。

 このような背理法が信頼に足るものとならば、この仮説は正しいと考えられるでしょう。

 では、メシアは預言者ではないけれど、当然、預言者以上のものであり、預言者でもありえる、という仮説に言い換えるとどうでしょう。

 おそらくこれが最も妥当な、尤もらしい仮説ですが、だとしても、なぜイエスは自分の真の姿、つまりメシアであることを伏せて、預言者と自称したのか、という疑問は依然として解消されません。

 おそらく、伝道の始めの時点では、イエスはメシアとしての自覚を持っていなかった、あるいは、その過酷な現実から逃れる道が備えられていると期待していたと、等々と考えると、幾分か、納得がいくかもしれません。

 だから、福音書はナザレの青年イエスが救い主として贖罪の生け贄、人身御供に追い詰められていく悲劇の歴史として読むべき、と思い至るのです。
 
 ところで、イエスの復活を信ずることは、それほど難しいことではありません。
 なぜなら、それはイエスという2000年前の青年の身に起こった他人事だからです。

 しかし、彼の伝えたメッセージ、つまり神の国は近づいた、悔い改めよという呼びかけに答えることは、当時のナザレの人々にとっても、エルサレムの人々にとっても、また、今ここに生きる私にとっても、はるかに難しいことです。

 なぜなら、それは他人事ではないからです。
 今、ここにいる私自身に、イエスが生命を賭して投げかけた呼びかけだからです。

 自らを預言者と自称したキリスト・イエスが身を震わせた不安と戦慄の原因は、この私にあるのです。

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