教会のお金の話


 最近になって、教会や献金についての記事を熱心にアップしているブログの存在を知りました。
 なるほどなぁ、世間の人はそんな風に見ているのかぁ、と大変興味深く感じましたし、寝たきりになった高齢教会員の献金を届けに見える息子さんの硬く無愛想な表情も、あぁそういうことか、と思わず納得させられました。
 せっかく、なるほどなぁ、をいただいたのも良いキッカケかもしれないません。
 この機会に、献金について、神の恵みとマモンの罪という二つの視点に立って、愚考するところを述べてみたいと思います。

1 神の恵みの観点から

 教会は三位一体の神を信じ、従う民の集会であり、その規模や献金の扱いも様々で、多様性な姿の教会があります。
 だから、なかには世間の人に批判されても仕方ないようなやり方で、献金を強制、強要をしている教会もあるかもしれません。

 しかし、多くの教会と教会員は、健全な信仰に基づいて献金を献げていると思います。

 では、それはどのような献金か。

 愚考するところ、一つには受動的応答としての献金であり、もう一つは、能動的応答としての献金です。

 受動的応答としての献金とは、この身体とそこに宿る命、そしてそれを支えるためのこの世の富はすべて神からの賜物であり、その恵みへの応答として献金をする、ということです。
 もし、それらのものが賜物でないと信ずるなら献金をする必要はないし、そのそも教会の群れに加わることはないはずです*。

*貧しい教会の牧師さんの息子さんがお小遣いを強制的に献金にさせられた、という悲しい例もあるようですが。

 能動的応答としての献金とは、恵みの神の働きにともに加えていただき、キリスト・イエスの同労者として、これを支えようとする意図で献金するということです。
 例えば献げられた献金の中から、牧師謝儀や次代の伝道をになう神学生のための奨学金を支出したり、フクシマの被災教会のための献金を支出したりしています。
 
 ただし、上述はあくまでも愚考するところであって、皆さんはそれぞれの思いを持って献げているのはずであり、その思いの一つ一つを神が個別に受け取って、お用いくださると信じているはずです。

 ちなみに、実務としてどのように献金を管理しているか、また、各種支出を執行しているか、ここでは脱線ですので、この記事の末尾に当教会の例をご紹介します。


2 マモンの罪の観点から

 教会が営利事業に熱心になってしまったら、世間様に批判されても当然です。

 例えば伝道に熱心に取り組んでいるうちに、教会員を増やし、教会財政を潤沢にすることが伝道である、そのために各種事業を展開すべきだ、というような思い違いが生まれてしまったら、世間様にも批判されるし、それ以上に神の裁きを恐れるべきでしょう。

 そして、2000年に渡る教会の歴史を見ると、そのような批判を受けるべき罪を繰り返してきたことは事実です。

 しかし、教会が何故、罪をおかすのか、というと教会に集う人々が罪に陥るからであり、その罪は多くの場合に真の神を離れ、マモンの神という偶像崇拝に従った結果である場合がほとんどです。

 だから、色々のご批判があるのはやむを得ないのですが、一方で、教会の行ったことが、真の神に従った結果なのか、マモンの神に従った結果なのか、判断の難しい場合もあるということは一つ、言い添えたいと思います。

 例えばペトルス・ヨハネス・オリヴィ(1247/48~1298)*は零細な商工業者救済のために利息に関する考え方を柔軟化するよう主張し、後年のモンテ・ディ・ピエタ(公益質屋のような金融機関)に道を開いた神学者でしたが、当時の教会からは異端として断罪されてしまいました。
 おそらく、今日に至ってさえ、彼の考え方が、真の神とマモンの神といずれに従ったものか、一刀両断に判断できる人は少ないと思います。

*「嘘と貪欲―西欧中世の商業・商人観― 」大黒 俊二著 名古屋大学出版会 、「中世思想原典集成 精選 5」 上智大学中世思想研究所 編訳・監修 平凡社、などを参照。

 そうした教会と社会の歴史を学べば学ぶほど、今にも罪に転落しそうな教会をどう支えるのか、教会の役員会の一員として、しばしば思い悩んでいる私というものがあるのです。

 ただ、私にとって、ひとつだけ明らかなことは「まず神の国と神の義とを求めなさい。」(マタ6:33)ということです。

 もちろん大人ですから、役員会の仲間や教会員の皆さんの声も聴き、世間の反応も謙虚に受け止めますが、最後にはこのみ言葉に従って、自ら考え、決断していくほかないのだ、と思っています。



【おまけ:教会の財務処理】
 私の所属する日本基督教団の教会では、教憲教規に基づいて、毎年行われる教会総会で選出された役員会が教会の執行機関としての実務を担っています。
 ここからは具体的に私の所属教会のことをお話しします。
 私の教会では牧師先生を含めて11名が役員となり、うち財務担当の役員を1~2名置いています。
 この担当役員に、必要に応じて牧師と他の役員が補助者として加わりながら、主日礼拝後に献金を数えて丁寧に「ナルドの壺」というExcelアプリに記録した上で、銀行に入金に行ったり、牧師謝儀や対外献金を振り込みに行ったり、という日常的なお金の出し入れを処理しています。
 また、20年ほど前からは、役員会のメンバーではない教会員2名を会計監査として教会総会が任命し、半年に1回、会計監査を行っています。
 あわせて、毎月の会計報告を、役員会の確認を経て教会員に文書で配布しています。
 以上が私の教会の実務ですが、現実問題として、教会がある程度以上の規模になると、お金の出入りについて透明性を確保しなければ教会員から指摘があるでしょうし、実務的にも、何人かで確認しながら処理しないと、毎月の収支が合わないとか、対外献金を送り忘れたり、2回送ったり、なんてことになって収拾がつかなくなるでしょう(実際、私の教会でも帳尻は合うけれど、よく見ると、計上科目の仕分けが違っていたということが時々、起こっています)。
 その意味では、他教派も含めて、キリスト教の教会の会計は、全体に透明性が高いのではないか、と思っています。

嘘と貪欲―西欧中世の商業・商人観― - 大黒 俊二
嘘と貪欲―西欧中世の商業・商人観― - 大黒 俊二

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