聖書は、半分だけ・・・


 僕が洗礼を受けたのは2000年のクリスマス、日本基督教団逗子教会において、でした。
 だから、洗礼式の時にも、20年たった今も教団の信仰告白を告白しています。
 ところで、その中の「旧新約聖書は、神の霊感によりて成り」・・・「神につき、救ひにつきて、全き知識を我らに与ふる神の言(ことば)にして」と告白するとき、この「全き」という言葉は、どう理解すべきでしょうか。
 愚考するに、聖書に書かれていることは完全に、疑う余地のない確実な真理である、という意味ではあっても、それらの事柄について、もれなく網羅的に記載されているということではない、と思います。
 
 その理由を幾つか列挙します。

1 分りきっているいることは書いていない

 僕らが、普段から一から十までお話しするのではない、というのは当たり前のことです。
 まして、お互いに分りきっていることなら、意識に浮かぶことすらないでしょう。

例えば、日本においては、ある時代まで正式な場で男女が同席することはあり得ない事であり、おそらくイエスの時代のパレスチナでも同じだったと思います。
 だから、宴席に男しかいなかった、なんてわざわざ書かないし、逆に女が入り込んできたときには、何事だろう、と特記したはずです。
 また、ルカ福音書にあるマルタとマリアの物語の中で、イエスの弟子たちが食卓の準備を手伝わなかったなんていう言及がないのは、家事は女の仕事という理解が当然のこととして共有されていたからでしょう。
 他にもいくらでも例を上げられますが、聖書が、一から十まで細かく述べてはいない、ということは明らかです。
 しかし、だからこそ、テキストに書かれていないことの中に大事なメッセージが潜んでいるはずだと、僕は考えているのです。
 そして、そのメッセージを発見するためには、聖書を徹底的に読むことは当然、歴史や社会学、経済学などの出来るだけ新しい知見を参照して、そこにヒントを探し求めつつ、聖書を読むべきであると信じているのです。

 ちなみに、第1コリント4:6でパウロは「書いてあることを越えない」ように教えています。
 このパウロの発言の講解は先生方にお任せすることとして、結果から言うと、教会は2000年の歩みの中で「書いてあること」を様々に乗り越えてきました。
 もちろん中には厳しく批判されるべき逸脱もあったでしょうし、逆に、その結果に懲りて「羮に懲りて膾を吹く」ようなところもあるようにも思います。
 しかし、三位一体の神理解などは、まさに神の啓示と称すべき思想であり、聖書に書いていないことを聖書とその他の書物の渉猟を通じて発掘してきたものと言えるでしょう。
 そうした教会の歴史を導いてきた神の啓示を信頼しているからこそ、私達は「書いてあること」をどんどん超え出て行くことができるのです。

2 救いの形はひとつではない

 瀬戸内の穏やかな海で牡蠣の養殖に取り組んでいる漁師さんと、津軽海峡の荒波にもまれながら大物マグロを狙っている漁師さんでは、主の恵の姿は違うはずです。
 つまり、様々な自然環境と、その上に成立する生産様式の中で暮らしを営む多様な人々が、「神について、救いについて」完全に一致する認識や理解を持つことは絶対にあり得ないはずです。
 だから、聖書が告げ知らせる福音と救済が一つしかないと考えることはとても危険であるということです。
 例えば、聖書は平和の価値を私達に訴えかけます。
 しかし、かつての日本は東アジアから西欧列強を駆逐し、アジア人の手による平和を実現するために大東亜共栄圏構想を打ち出して、植民地支配を正当化しました。
 平和を実現することは尊いことですが、平和を輸出することは戦争を輸出することに他ならない、ということもわきまえておきべきです。
 神の国をこの世に実現するのは神ご自身であり、キリスト者も含めて罪深き人間ではありません、
 聖書が、「神につき、救ひにつきて、全き知識を我らに与ふる神の言」であるにもかかわらず、神がそこにすべての真理を網羅的に書き残そうとなさらなかったのは、聖書を実践すれば罪深い人間の手であっても地上に神の国を実現できるという思い上がりを除くため、だったのかもしれません。

3 半分だけの真実

 僕が聖書には真実が網羅されているわけではない、と申し上げました。
 では、どの程度、網羅されているのか。
 おそらく、せいぜい良くて半分くらいがいいところ、と思っています。
 それは、一つは大数の法則の観点もありますが、それよりも大事なことは、聖書はすべて男性によって書かれたとことが、確実だからです。
 だから、聖書に書かれていないことこそ聖書理解の重要な鍵になる、という考えに立つとき、最大の鍵は女性の視点だと考えています。
 厳密には女性と子どもの視点と言うべきなのですが、子どもについては聖書にまだしも積極的な記事が残されているので、その点を按分して、ザックリ、半分と推測したわけです。

 では、聖書が世界の真理の半分しか述べていないのなら、そんなにつまらない書物なら、来週の資源ゴミの日に出してしまった方が良いでしょうか。
 おそらく、そうではありません。
 
 そもそも復活のイエスが弟子たちのもとを去って行くとき、新たに与えられる課題の答えは、その都度、一人一人に与えられる聖霊を通して、動的に与えられると約束なさっています。
 つまり、聖書の世界がどんどん時代に取り残され、教会もまた変化を求められる筈であると言うことを、神は最初から分っておられたということです。
 しかし、そのことを織り込んだ上で聖書を私達に与えてくださっている、ということは何を示しているでしょうか。
 それは、聖書には今の私達に見えている以上の、少なくとも最低でも倍くらいの発見と解決の糸口が秘められている、ということです。
 信仰告白に立ち返って言い換えるなら、聖書が神の言葉である、ということは、その言葉が常に希望と愛の源泉であり続けることを保証している、ということなのです。

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