21世紀の「バベルの塔」の理解


 創世記のバベルの塔のお話しは、普通は、人々がたった一つの言語しか持っていない世界が否定されたお話し、と理解されています。

 しかし、I.イリイチが「シャドウ・ワーク」で指摘するように、人々がひとつの言語しか持っていない社会は、政策的に作り出されたものであって、ある時代以前には存在しなかったと考えられます。
 実際、僕は行ったことはないけれど、海外に行けば、学歴とは無関係に、複数の言語を操る人たちがたくさんいる、とのこと。
 日本だって、少し前までは、学校では共通語、家に帰って祖父母と話すときは地域の方言という人がたくさんいましたし、明治30年代生まれの祖父母が友人と話している津軽弁は、札幌生まれの私にはまったく理解困難でした。
 また、長じて大学に入ったときの友人は秋田弁と共通語を上手に使い分けて愉快なお喋りで楽しませてくれたものでした。
 そのように考えていくと、人には複数の言葉を、暮らしの中で独力で身につける能力が備えられていると考えられます。

 ところで、そのような複数の言葉を操る能力が、なぜ私達に与えられているのでしょうか。
 それはおそらく、それぞれの地域と伝統にふさわしい言葉が存在するはずであり、そのような多様性な言葉を用いて相互理解を図る必要があったからだと思います。
 かつ、そもそも言葉を作り出したのは人間とその共同体なのだから、ひとつの言葉を作り出す能力が、他の言葉を操る能力を含んでいるのは当然のような気もします。

 しかし、近代的な国民国家が成立すると、例えば、日本人には東京周辺の日本語しかしゃべらせない、英国人にはコクニーやウェールズ語ではなくクイーンズイングリッシュしかしゃべらせない、というふうに共通語を作り出し、人々にその使用を強制するようになっていきます。
 その理由は、例えば軍隊に徴兵してきた若い男性に言葉を教えていては戦争に勝てないからとか、あるいは、そもそも中央政府の様々なプロパガンダを徹底する必要があったとか、という政策的な必要性があったことは明らかでしょう。
 そして、決して明らかではないけれど、高度成長期における大量生産した商品を残さず買って貰う社会、つまり大量消費の社会を作り出すために、商品の魅力をより多くの人たちに届けようとするとき、各地域ごとの言葉がむしろ障壁となったはずです。
 つまり、歴史的にみると、まず政治的な理由によって、ついで経済的な理由によって共通語の強制が産まれたと考えられます。

 さて、そのような視点に立ってバベルの塔の話を読み直すとどうなるか。

 物語は、世界中は同じ言葉を使っていた、というところから語り始めています。
 しかし、なぜ、世界中が同じ言葉を使っていたのでしょうか。
 すでに確認したとおり、神は言葉を生み出す能力、複数の異なる言葉も理解する能力を私達に与えてくださったのに、世界中はその能力を、そして恐らく被造物としての人間性を抑圧していた、と読むことが出来るということです。
 しかし、創世記の記者たちは、神がそのような人間性の抑圧に対して裁きを下したのに、その裁きの真の原因を罪として自覚できず、人間の能力に対する神のねたみという神の悪意として受け止めた、という史実を記録しているのが、この物語である、という理解に至ります。

 そして、そのような読みに立ったとき、バベルの塔の物語は、今日もなお、言語の独占支配を通じて政治的・経済的に人々に与えられた主の賜物を抑圧し支配しようとするサタンの働きに対する告発として、新鮮な響きを持って私達に届いてくるのです。

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