「正義を求める声」2月23日CS中高科奨励原稿

【課題聖書箇所 ルカ:10:38~42】

 今朝も例によって一言だけ覚えて帰ろうシリーズをやりたいと思います。
 ただし、今朝の一言はイエス様のお言葉ではなく、マルタという女性の言葉「主よ、妹は私だけにおもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」です。

 さて、私達の社会では平等はとても大切な価値であり、不公平は断じて許されない悪です。
 そして、そうした共通理解があるからこそ、他の人よりも弱い立場にある人、例えば貧しい子どもたちや障害者の平等を実質的にどう確保し、不公平を取り除くか、という積極的な正義の実現に向かう議論が可能になります。
 しかし、そうした考え方が確立されたのは比較的最近のことです。
 例えば、奴隷制度がフランスやイギリス、アメリカで廃止されたのは、わずか200年ほど前のことです。
 また、女性に参政権が与えられたのは、イギリスやアメリカでは第1次世界大戦の前後、日本やフランスでは第2次世界大戦後で、約70年前、僕が産まれる10数年前のことです。

そんな長い間、不公平を放置して、教会は一体何をしていたのか、とチコちゃんに叱られても仕方ないと思います。

 しかし、あえて言い訳するなら、イエス様の時代には正義としての平等、という考え方そのものが存在しませんでした。

 にもかかわらず、断固として平等を求めたマルタの言葉は勇気にあふれた、また、ある意味、とても切実な発言だったということがわかります。
ただし、勢い余ってマリアを攻撃したのは行き過ぎだったので、イエス様はその点をたしなめたと言うのが、このお話しの粗筋です。
 では、マルタはどう言うべきだったのか。
 例えば、「イエス様、ぼ~~っと座ってるお弟子たちに手伝いをさせてください。男も女も一緒に食事を楽しみたいと思いませんか?」と言うべきだったかもしれません。
 あるいは「お客様をもてなすことは神から与えられた、誇り高い女の仕事です。マリアに神を思い出すように仰ってください」という言い方もあったかもしれないですね。
 いずれにしても、勇気にあふれた発言であったとしても、姉妹を攻撃するという問題も含んでいるこのやりとりを、あえて神様は聖書にお残しになりました。
 さあ、それはなぜでしょうか。

 ところで、マタイ福音書5章17節でイエス様は、自分がやってきたのは律法を完成させるためだ、と言っています。
 しかし、イエス様は、完成された律法の姿については断片的にしか語っていません。
 むしろ、抽象的で体系的な正義や公正を語ることよりも、病人の癒やし、罪人の解放、そして受難と復活という具体的な行為を通して私達に語りかけました。
 イエス様がそうなさった理由は明らかで、完成された律法の姿はひとつではないし、ひとつであってはならないからです。

 例えば、東アジアの国のようにお米が主食の国もあります。
 一方、中東から欧州にかけては麦が主食であり、オセアニアは芋、中南米はトウモロコシが主食でした。
 やや難しい言い方をするなら、多様な自然環境と生産様式の上に成立する多様な暮らし(共同体)があるのに、すべて同一の、お仕着せの律法によって正義を実現することは不可能であり、逆に正義に反する結果を生んでしまうと言うことです。
 そのことはけして、神さまの失敗でも人間の罪でもありません。
むしろ、神さまが与えてくださった多様性と柔軟性という賜物です。
 だから、私達もそれぞれの社会にふさわしい、個性豊かで、心ある正義の実現を追求することができるし、イエス様の後を継いで、律法を完成させるのは、私達自身であると言えるでしょう。

 このことを、マルタの言葉にそって具体的に考えると、食事の手伝いをどのようにみんなで分担するかは、ひとつにはその食卓を支える自然環境、いわば海の幸と山の幸の案配や季節によっても変ってくるでしょう。
 また、その自然環境の中での人々の生産様式、つまり一定の限界の中にある男と女の力を、食材の確保や調理と保存の作業に最も無駄と無理のない分配するなら、いかなる割合になるべきか、その合意点、すなわちその社会における個別具体的な正義の姿を常に、動的に追求せざるをえないということです。

 そのことを裏付ける言葉が、ロマ書10:4です。
 それは「キリストは目標であります」という言葉です。
 つまり、それぞれの共同体ごとに事情が異なる以上、正義の在り方は異なってくるけれど、すべての正義に共通する目標としてキリスト、つまり救い主が与えられ、示されているということです。

 僕は、さっき、なぜ、神はマルタの舌足らずな発言を今日の私達の元へ伝え、残したのか、という疑問を提起しました。
 その答えは、それぞれの時代と地域における共同体のひとつひとつに多様な正義と公正があり得るし、それが賜物であり恵であるけれど、それらすべてに共通し、横串に出来る目標があって、それが救い主の働きであり、イエス様の十字架であり、三位一体の神の愛であるということを伝えるためだった、ということです
 そして、救い主としてのイエス様に、ハッキリと文句を言い、にらみつけたマルタの視線は、確実に、その目標を捉えていたし、神さまは今、私達にもそのように主を見つめて欲しいと願っておられるからこそ、この言葉を聖書に書き残させたのです
 私達も、イエスを見上げ、時に、文句を言い、にらみつけながら救い主に従って、その愛に向かって、歩み続けたいと思います。

【大人のための補足】

 多様な正義において共通する要素をもう少し掘り下げて考察すると、どうなるか。
 過去においては様々な提案があった。
 例えばベンサムの「最大多数の最大幸福」であるが、これはK.アローの不可能性定理により実現不可能であることが証明されている(cf. A.セン「合理的な愚か者」)。
 それゆえにJ.ロールズの「重なり合うコンセンサス」や「マキシミンルール=もっとも貧しい人たちに最大の分配」という提案こそが、恐らくキリストの目標に適うものであり、人類は2千年を費やしてやっとこの地点に到達した、とも言えるだろう。
 しかし、現実にはそのような分配を実現しようとすると、自分たちの所有を分配の原資として供することに頑として抵抗する勢力の存在が見えてくる。
 ピケティやミラノヴィッチもこの問題を経済の視点から指摘している。
 エコロジーについても、格差問題についても、性差別の問題についても、今日的課題の最大の天王山はここにある。

 教案誌はイエスの答え「しかし、必要なことは一つだけである。マリアは良いほうを選んだ」を主題として子どもたちに教えるように助言しているが、あえてこの指示は採用しなかった。
 それは「必要なことは一つだけ」という前段と、「良いほうを選んだ」という後段の論理が整合しないからだ。
 一つだけというなら、正しい方を選んだ、ということになるし、良い方を、と受けるなら必要なことは複数あるけれど、と前提しなければ整合しない。
 当時としては、このような不整合は、普通の言い方だったのかもしれないし、教案誌はそのような前提に立って、一つだけの大事なものを正しく選択した、と理解している。
 しかし、律法と福音のうち「必要なことは一つだけ」といいながらも、律法と福音の双方に同様の価値を認めた上で相対的には福音を選んだ、という意味で「良いほうを選んだ」とルカが書き残したとしたら教案誌の助言は大事なポイントを外しているのではないか。
 パウロはユダヤ人にはユダヤ人のようになり、異邦人には異邦人のようになったと述べている。
 この発言は悪意を持って受け取るなら、律法をどう考えるか、相手によって二枚舌を使ったとも言えるものであり、そのように考えるとき、安易に教案誌の受け取り方に従うべきではない、と判断したものである。

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