新共同訳の気になる訳文


1 問題提起

 以下にお示しするのは新共同訳のマルコ福音書7:24、有名なシリア・フェニキアのお話しの導入部分です。
「イエスはそこを立ち去って、ティルスの地方に行かれた。ある家に入り、だれにも知られたくないと思っておられたが、人々に気づかれてしまった。」

 この部分を新改訳は次のように訳しています。
「イエスはそこを出てツロの地方へ行かれた。家に入られたとき、誰にも知られたくないと思われたが、隠れていることはできなかった。」

 一読してお気づきのとおり、新共同訳は「人々に気づかれてしまった。」と訳し、新改訳は「隠れていることはできなかった。」と訳しています。

 さて、どっちが適切な訳文でしょうか。


2 他の訳を参照する

 私にはギリシャ語は分かりませんので、例によって他の訳を見てみたいと思います。

 まず、文語訳ですが、新改訳と同じ訳になっています。なお、フリガナは一部省略、漢字は略字になっています。

「イエス起(た)ちて此処を去り、ツロの地方に往き、家に入りて人に知られじとし給いひたれど、隠るること能(あた)わざりき。」

 次に、これまた例によってBibleGatewayでまず、英訳を見てみます。

 最初は、NRSVです。センテンスが切れていないので、24節から25節を引いておきます。

24 From there he set out and went away to the region of Tyre.He entered a house and did not want anyone to know he was there. Yet he could not escape notice, 25 but a woman whose little daughter had an unclean spirit immediately heard about him, and she came and bowed down at his feet.

 問題の部分は「Yet he could not escape notice,」ですが、やっぱり「隠れていることはできなかった」と訳しています。

 次ニギデオン聖書に敬意を表し、New American Bible (Revised Edition) (NABRE)です。

From that place he went off to the district of Tyre. He entered a house and wanted no one to know about it, but he could not escape notice.

 Butとyetが違うだけで、あとはNRSVと同じなので、あえてクドくは申しますまい。

 次は仏訳です。とりあえずLouis Segond (LSG)です。

Jésus, étant parti de là, s'en alla dans le territoire de Tyr et de Sidon. Il entra dans une maison, désirant que personne ne le sût; mais il ne put rester caché.

 他の訳と同じように「誰にも知られたくない」と思ったという前段があります。「Il entra dans une maison, désirant que personne ne le sût;」がそれですが、「le sût」の「le」はイエスをさす代名詞、「sût」は「savoir」つまり「知る」という動詞の半過去形です。そして、「mais il ne put rester caché.」、つまり「隠れていることはできなかった」と訳しています。

 次の訳はどうでしょうか、Nouvelle Edition de Genève – NEG1979 (NEG1979)です。

Jésus, étant parti de là, s’en alla dans le territoire de Tyr et de Sidon. Il entra dans une maison, désirant que personne ne le sache; mais il ne put rester caché.

 いつも感心するのですが、フランス語訳の凄いところは、単語を一つしか変えていないところです。それほどまで徹底して推敲した訳として他の訳を尊重しているのかもしれません。

 そのうえで一カ所だけ違うのは「que personne ne le sache」という部分で、これも興味深い訳です。「sache」は「sût」と同じ「savoir」の活用形ですが、「sût」は三人称単数、つまり彼や彼女、ひいては誰かさんに知られたくなかったという活用形、一方、「sache」はtuに対する接続法現在の活用形、つまり、ごく身近な人に対しても隠れていたかったのにぃ、というニュアンスを強調していると思います。
 しかし、この訳においても「隠れていることはできなかった」という訳は、完全に一致しています。

 以上のように他の訳と比較すると新共同訳の「人々に気づかれてしまった」は特異な訳だ、とおわかりと思います。


3 小さい方の理由を先に述べます

 この訳に問題があると主張するのは二つの理由によりますが、最初に小さい方の理由から述べようと思います。

 それは、受動態を能動態で訳している点です。

 例えば「犯人は刑事に捕まった」という文を「刑事が犯人を捕まえた」と訳したら、高校の英語のテストではバッテンを貰ってしまうでしょうし、実際、かく言う私自身が、何度もそうやってバッテンを貰っては、意味は同じなんだから構わないじゃないか、と思ったものでした。

 しかし、受動態を能動態に訳してしまうと、主語が変ってしまうのです。

 つまり、書き手はあくまでもイエスの姿に注目して欲しかったのに、主語を「人々」に変えてしまうと、読み手の視線はそちらの方へ横滑りしてしまいます。

 しかも、他の訳を丁寧に見ると原文のどこにも「人々」なんて言葉はないようで、訳者が勝手にねつ造した言葉だという事にもお気づきいただけるでしょう。

 「人々に気づかれてしまった。」と訳してはいけない、小さい方の理由はその点です。


4 大きい方の理由を次に述べます

 勿論、聖書翻訳は高校の英語の試験ではないのだから、訳者の判断で受動態を能動態に変えたり、主語として架空の「人々」なる言葉をねつ造しても許される、新共同訳の訳者はそう考えたのでしょうが、この一文に関する限り、その判断は断じて許されないのです。

 それは何故か。

 まず、イエスはなぜ隠れようとしたのかを考えるべきです。

 イエスは私たちに世の光となるようにと教えられました。

 この教えについて聖アウグスティヌスや中世の神学者、そして今日までの多くの聖徒が、イエスこそ、この世で最大の世の光であり、私たちはその光を分け与えていただくこと(分有)で、世の光となりうると考えていましたし、私もそう考えています。

 ところが、隠れることが最初から出来ないような、巨大な世の光である、イエスがなぜ隠れようとしたのか。

 その理由はやがてゲッセマネの祈りにおいて私たちに明らかにされることになるでしょうし、福音書記者はその点を踏まえて、あるいは、そのことを啓示されて、隠れようとした、と書き残したはずです。

 そして、そのイエスが、隠れることができなかった、と述べることによって、イエスが放っていた眩いばかりの霊的な光に私たちの視線を導こう、その光の分有に与らせよう、としているのです。

 だから、ここの主語は絶対に変えてはいけないのです。

 にもかかわらず新共同訳は主語を変えてしまっていて、しかも、昨年刊行された新しい訳でも、ノーコメントでこの誤訳を踏襲しています。

 日本聖書協会の新しい訳に関する記事によるなら、訳文の正確性を確保するため、パラテキスト*なるアプリで各国語の聖書翻訳との照合作業をしたと述べていますが、きっと両目をつぶって作業したんだと思います。

https://www.bible.or.jp/contents/know/pdf/si_bible.pdfの4ページ

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