「神の国を発見!」(2019年8月18日夕礼拝奨励原稿)

 今日は小宮山牧師がご不在なので、私が代わりに奨励を仰せつかりました。
 私には聖書の解き明かしはできませんので、あくまでも私の理解、私の証としてお聞きいただきたい、と最初にエクスキューズを振っておいて、お話しを始めようと思います。


1 ハルトの教えてくれたこと その1

 さて、6月の末に札幌の叔母が93歳で亡くなって、お通夜と葬儀に行ってきました。
 生涯独身ですごした人でしたので、私とお嫁に行った従姉妹の家族10人ほどの家族葬にしたのですが、その中に、従姉妹の孫たち、小学校一年生と年中さん?の女の子二人、シノちゃんとホノちゃん、と、この7月末で3歳になった男の子、ハルトもいて、不謹慎な言い方ですが、子供たちを囲んでとても楽しいご葬儀でした。
 特に、ハルトが本当に可愛いんです。
 元気いっぱいに走り回って、転んで、泣いて、笑ってっていう、その姿がもう、なんともいえない。
 もちろん、親の身になれば、一時も目を離せないし、まだオムツだし、ご飯を食べさせるのも大変なんですが、でも親たちも、またもちろん、従姉妹夫婦も可愛くて仕方ない感じなんです。
 ちょうど言葉をどんどん覚える時期なんでしょうが、たった一晩一緒だっただけなのに、次の日には、私のことを「おじいちゃん」って呼んでくれるんですよね・・・もう、メロメロですよ。
 で、帰りの飛行機の中で考えたんですね、なんで、こんなに可愛いんだろうか?
 そして、そこにあったのは命の輝き、躍動、喜び、ぬくもり、つまり命そのものだったんだ、と気がついたときに次の二つの聖句を思い出したんです。

 ひとつはルカの中のキリスト・イエスの言葉です。

しかし、イエスは乳飲み子たちを呼び寄せて言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。(ルカ18:16)

 もう一つは、第一コリントの中のパウロの言葉です。

わたしはあなたがたに神秘を告げます。わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります。(コリント一15:51~53)

 この二つの聖句は、両方とも神の国について述べていますが、こうして並べてみると、ちがいがハッキリすると思うのです。
 パウロは、あくまでも神さまからいただいた預言として、いわば、この分厚い聖書から演繹した論理的帰結として述べている感じです。
 一方、イエス様はただただ素直に、ご自分が目にしたことを述べています。
 だから、とあえて申し上げるんですが、神の国と言うところは、イエス様が証されているとおりに、男も女もハルトたちみたいな子供になって転げ回って暮らしているところなんだ、そして、私たちはみんな、そこに行くことになるんだ、ということに気がついたのです。
 みなさんも、初対面の子供たちがすぐに仲良くなって遊び回る姿をごらんになったことがあると思います。
 今この世で自閉や知的障害や精神障害や様々な身体の障害を持っている子供や大人も、神の国に行ったら、ハルトみたいな子供になって仲良く暮らしていくのだということです。
 イエス様が、神の国をそのように証しておられる、それが、ハルトが教えてくれたことのその一です。


2 ハルトの教えてくれたこと その2

 そして、このことを繰り返し考えているうちに、もうひとつ、ハルトが教えてくれたこと、その2があったことに気がついたんです。

 これからお話しすることは、実は、ごく少数の近しい人にしか話したことがありません。
 随分、もったいぶると思われるかもしれないですが、それだけ、私にとっては大切な思い出なのです。
 しかし、ハルトに教えられて、その思い出の本当の意味が分かったので、ここで、はじめてオープンなところでお話しすることにしたんです。

 私の最初の奥さんは1999年4月3日未明に、福浦の市大病院で亡くなりました。
 そして、翌4日の夜に家で寝ていると、枕元を小さな子供、それこそハルトのような子供が走り回る足音が聞こえて、「心配しなくていいからね」って何回か家内の声がして、すぐに気配が消えたんです。
 家内が最後に私に会いに来てくれたんだと、私は今でも信じていますし、だからこそ、今までほぼ内緒にしていたのですが、なぜ「心配しなくていいからね」って言ったのかが分からなかったんです。
 ところが、ハルトの教えてくれたこと、つまり神の国が小さな子供たちの国だってことが見えた途端に、その意味が理解出来たんです。
 実は、亡くなった家内の両親と祖父は教団の大分東教会の開拓伝道に奉仕したクリスチャンでしたが、家内だけは、結局、色々の躓きがあって、洗礼を受けずに亡くなったんです。
 しかし、その家内がハルトのような姿になって神の国の門に達したときに、おそらく彼女の両親や祖父や大分東教会の信仰の先輩たちが、やっぱり子供の姿で出迎えて、イエス様と一緒に大歓迎してもらったんだと思うんです。
 だから「心配しなくていいからね」って、亡くなって次の晩に言いに来たんだと思うんですね。
 おそらく最初の晩は大歓迎で、楽しくて嬉しくて、その暇がなかったんですね。
 そして、その後、一度も僕の所に戻ってこないのは神の国が楽しくて素晴らしいところだからだ、と分かったのです。
 小さくて可愛いハルトは私の20年越しの疑問にも、答えを教えてくれたんです。


3 求道者へのお奨め

 さて、最後に求道中の方にお奨めを申し上げたいと思います。

 洗礼を受けること、及び、聖餐に与ること、それはどういうことでしょうか。

 ここに、神の国のこともイエス様のことも知らない人がいる、と考えていただきたいのです。
 その人はきっと、死んだら何もかもが失われてしまうと信じつつ、この世の様々な重荷に苦しみ、呻きながら日々を過ごし、やがて年老いて、死に至るでしょう。
 ところが、死んでビックリ、神の国の門に達したら、ハルトみたいな姿になった自分と、たくさんの子供たちが走り回る、こんな素晴らしい終わりが待ち受けていたなんて、と思うでしょう。
 ひょっとすると、なんで最初から教えてくれなかったんだ!もし教えてくれてたら、ここに至るまでの歩みももっと希望に満ちたものだったろうに!って神さまにクレームを入れるかもしれない。
 伝道とは、そういうことだと思います。
 だからこそ、この世の果てに至るまで福音を宣べ伝えなさい、とイエス様はお命じになったんだと思います。
 なにしろ、神の国への道を、その受難と復活によって、過去と未来のすべての人に開いてくださったのはイエス様ご自身なのです。
 しかも、キリスト・イエスが開いて下さったのは、人間になるのか、虫けらになるのか分からないような輪廻転生の道ではなく、私たち一人一人を顧みて、神さまからいただいた人格そのままに復活するという道だということです。*
 だから、キリスト、すなわち救い主であるイエス様がそのようにお命じになるのは、当然であり、むしろ私たち一人一人に期待されていること、のはずです。
 そして、そのように考えていくと、洗礼と聖餐の意味が見えてくると思います。
 私たちの命が神さまのもとからやって来て、神さまのもとへ帰って行く、その発見に喜びの声を上げること、それが洗礼だと思います。
 そして、神の国でやがて与るイエス様の食卓の喜びを先取りするのが聖餐なんです。
 伝道の中ではとかく、洗礼だけが前に出てきがちですが、御国の喜び、私たちの本籍のありどころ、という意味では、洗礼と聖餐をセットで考えていただきたいと思います。
 洗礼を受けませんか、ってお誘いするのは間違いで、一緒に聖餐に与りませんか、そのために洗礼を受けませんか、っていうのが、多分、本当のお奨めの仕方なのかもしれません
 以上のことはあくまでも私の理解に過ぎませんが、同時にハルトが教えてくれた証でもあります。
 求道中の方には、神の国の希望と喜びを私たちと分かち合いながら、この世を歩んでいただくことをお奨めして、お話しを閉じたいと思います。


*当日はアドリブで以下のようなお話しを追加しました:聖書を読むと神さまを陶工に例える記事がいくつも出てきます。陶工が器を作るように、神さまは私たち一人一人を作った、というようなお話しです。私は、それらの記事を何気なく読んでいましたが、先日、ハッと気づいたことがあったのです。陶工である以上、一つ一つ手作りしている、と言うことです。金型や鋳型で大量生産したのではなく、神さまが心を込めて私たちを手作りして下さった、その私たちを神の国で待ち構えて下さっている、と言うことです。

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