復活について


 直前の記事でも申し上げましたが、8月10日の福嶋揚氏主催のセミナーの意見交換の中で、キリスト者は一体、どうして復活を信じられるのか、信じられない!という趣旨の発言がありました。
 この点については、すでに星の数ほどの証がなされているはずであり、今更、私如きが贅言を加えるまでもないとは思いますが、ここは私自身の理解の整理のために愚考するところを申し上げてみたいと思います。

1 普通のアプローチ

 多分、例えば天動説と地動説を例に取った説明が一番、普通に用いられるものでしょう。
 しかし、よくよく考えると、いまどき天動説を信ずる人はいないのに、その一方で、アポロ11号の月面着陸は、実はハリウッドの作り物、監督はキューブリックだのスピルバーグだのという都市伝説がいまだに取り沙汰されているのも事実です。
 つまり、どう説明したところで、その人が信ずる気持ちになるかどうかは、その人次第、聖書的に言うなら主の定められた「時」次第、ということなのでしょう。

2 背理法によるアプローチ

 どうやら普通に理詰めで説明しても無駄だ、と言うことならば、一つの有力なアプローチは聖書の記述がすべて真実だと前提した上で、これを否定すると様々な矛盾が生じるでしょ?だから、前提は真であり、当然に復活も真なんですよ、という背理法を使うことです。
 これはしかし、実はちょっとズルなやり方です。
 なぜなら、聖書の記事の一つを巡って議論をして自分の前提が否定されたら、別の記事を持ち出して同じ事を繰り返すという、相手にとっては蟻地獄的な状況を与えることになるので、決して愛あるアプローチとはいえないでしょうし、それ以前に「あんた、しつこいねぇ」と撥ね付けられてオシマイでしょう。

3 利益誘導的!?なアプローチ

 理屈で説明できないならとやや投げやりに、ワザと嫌らしい言い方をしてみましたが、意外と多くのキリスト者の気持ちに適うのがこの考え方かもしれません。
 実際、8月15日の記事にも書いたとおり、多くの教会で個人的な救済の証がたくさん、行われているという現実も、その一つの証拠かもしれません。
 ただし、ここで利益誘導的というのは、キリスト・イエスの父なる神は現世利益的な神であるということではないのです。
 その点をもう少し丁寧に考えていきますので、どうかもう少しお付き合い下さい。
 人は社会生活の中で生きる存在です。
 平たくいうなら、人は人々の中で生きていると言うことです。
 そのことは、例えば病気や怪我で苦しむとき、勿論、肉体の痛みに苦しんでいるのだけれど、他の人たちのように元気に学校に行ったり仕事をしたり出来ないことにも苦しんでいるのであり、そこが人間と動物の決定的に違うところです。
 その時に、病人を取り巻く人々が彼に暖かい、肯定的な接し方をしてくれればいいですが、そうではない、冷酷で否定的な接し方をしたらどうでしょうか。
 場合によっては、病人本人の気持ちが後ろ向きになって、どんな接し方をしても否定的にしか受け取れない、そういう厳しい状況に陥っていく場合も少なくないでしょう。
 ひょっとすると肉体的な痛みが消えてもなお、そうした困難の状況が続いていく場合もあるでしょうし、今日、問題になっている「ひきこもり」とは、そうした状況を言っているのかもしれません。
 こうした例をはじめとしてもはや人の力、人々の力ではどうしようもないことが、世の中にはたくさんあることを、少しは物の分かった大人なら身に沁みて知っているはずです。
 そのような事態を目の当たりにして、仕方ないことは仕方ないこと、といって絶望と無気力の中に身を沈めるのか(それも一定の期間はひ必要ですが)、人間に出来ないことも、神さまには出来ると、なお希望の中に身を起こして祈り始めるか、あなたならどっちを取りますか?ということを、私は意地悪く利益誘導的、と申し上げたのです。
 そして、祈り始めた人にはキリスト・イエスの復活が大きな意味を持って迫ってくるに違いありません。
 聴かれる祈りもあれば、直ちには聴かれない祈りもあります。
 しかし、ある程度の期間、祈ってみて、聴かれる祈り、聴かれなかった祈りを経験してみなければ、つまり祈りの実践に取り組んでみなければ、その実践がもたらす変化や意義は分からないでしょう。

4 復活を信じない、ということはどういうことか

 経験的な科学で復活を証明できないけれど、逆に否定もできないのです。
 昔、読んだ本にあった話ですが、エイズウィルスが発見されたとき、極めてわずかな分子量に閉じ込められた研ぎ澄まされた悪性ぶりに、研究者たちは一体、どうやったらこんなウィルスが生まれるんだろう、ひょっとして誰かが生物兵器として開発したのではないかと疑った、というエピソードがありましたが、世の中には分からないことがたくさんあるというのは、例えばそういうことだと思います。
 だから、今日、世の中のことがすべて白日の下にさらされていると考え、それゆえ、復活はなかったと断言するのは、穏やかに言っても勉強不足であり、キッパリいうなら傲慢です。
 復活はなかった、という考え方にしがみついて、自縄自縛の罠にはまっている自分をまず助け出してあげて欲しいと、キリスト者は願っているのです。

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