新たな群れを生み出す


 さる8月10日、福嶋揚氏主催のセミナーに出席したら、意見交換の中で新約聖書の記事の史的信憑性を巡る発言がなされました。
 すなわち、弟子たちに受難と復活を預言したイエスの発言は、後世のでっち上げとすることが定説である、との議論です。
 そのやりとりをきっかけに思うところあり、まずは聖書の史的信憑性について、次に、その伝道的な意義について愚考するところを申し上げます。

*もう一つ、復活を信じられるキリスト者は一体、どういう思考プロセスを辿っているのか、という発言もあって、これも興味深い問題ですが、この点については別に稿を改めて検討します。


1 歴史を調べる手法のこと

 本論に入る前に私の大好きな歴史学者、フェルナン・ブローデル(1902.8.24-1985.11.27)のことをお話しさせてください。
 彼は第2次世界大戦に応召してドイツ軍の捕虜となり、捕虜収容所で博士論文を書きました。
 その論文「フェリペ2世時代の地中海と地中海世界」(邦題は「地中海」)は1949年に公刊され、大きな反響を呼びました。
 この論文はその後の増補改訂を経て、現在、日本語訳のソフトカバー本が全10冊となっていますが、初版の分量もその三分の一程度はあったようで、その内容の斬新さに加えて、これだけの大著を捕虜収容所で記憶だけで生み出した「象の記憶」も話題になりました。
 ブローデルのインタヴューを見ると、もともと古文書館を回ることが楽しみで、お休みになるとご夫人と一緒に各地の古文書館に出かけては、写真を撮りノートに記録を取っていたのだそうです。
 ところが、フィルム代や現像代がバカにならないので困っていたところ、映画撮影用の16ミリカメラを入手したので、シャッターを一枚ずつ切ることが出来るように改造し、それで大量の資料を安価に写真に収め、その結果、自宅でじっくり再検討できる資料が飛躍的に増えたと言う裏話もありました。
 つまり、ブローデルの魅力はそうした原資料に対する愛を源泉として産まれているのであり、彼がマルクスやK.ポランニーの発展史観を2次資料に依存したものとして揶揄し、退ける際の余裕綽々ぶりもそうした資料調査がもたらす自信に立脚しているのです。


2 聖書の史的信憑性を巡る三つの立場

 以上の前置きを踏まえて、新約聖書の記事の史的信憑性を考えていくとどうでしょうか。
 ブローデルのような原資料の渉猟の結果を物的証拠として、ある史実を立証や否定するなら十分な妥当性があると考えられでしょう。
 しかし、2,000年前のイエスの言行について、そのような原資料を確保することは不可能なはずで、せいぜい、写本の相互参照関係や考古学的発掘の成果などの間接的な証拠から推定することが関の山の筈です。
 だとすると、以下の2つの両極端な立場とその中間的な立場の3つの立場が導かれることになります。
 極端な立場の一方は、すべてを虚偽とする立場、いわば全面的推定有罪説、です。
 また、もう一方の立場はすべてを事実とする立場、つまり全面的推定無罪説、です。
 後者は私の立場で、愚かな聖書バカ、と思っていただければいい。
 また、前者については、そもそも聖書や教会に縁のない方ですから、ただ神さまの導きにお委ねするしかない話です。
 だとすると、いささか検討を要するのは、この両者の間の中間の立場、と言うことになるでしょう。


3 確率的な史的信憑性について

 上述のとおり、私自身は全面推定無罪説ですが、それを他人に強要するつもりはありません。
 なぜなら、一定の割合で不正確な伝承や写本作成時の転記ミスなどの、いわばノイズ成分が入り込んでいると考える方が、私たちの経験や理性に適っているからです。
 そこで思い出すのが、喩えとしての穏当さにはどうかとも思いつつ、マタイ13:36以下の毒麦の譬えです(この喩えには、毒麦がやがて良い麦に作り替えられていく可能性という大事なコノテーションもあると思いますが、ここではその点を無視して検討します)。
 もし、畑の大部分が毒麦なら、農夫は、周辺の畑に毒麦が飛散することを懸念して、躊躇することなく焼き捨て、直ちに種まきをやり直すでしょう。
 しかし、種まきをやり直すにしても、今一度、畑を鋤き返す労力や種麦の確保などのコストが生じるでしょうが、農夫は毒麦の割合と、種まきのやり直しに必要な時間や労力を天秤にかけながら、相当、慎重に考えるでしょう。
 だから、毒麦の割合が1割くらいなら当然、ひょっとすると半々くらいでもそのままにしておくに違いありません。
 ちょっとネット(http://www.maff.go.jp/kinki/seibi/midori/kagaku/03/19.html)で調べると15世紀西欧の小麦の播種量と収量の差は5倍程度だったそうですから、良い麦が二割を下回ったら、種まきをやり直したかもしれません。しかし、種まきのやり直し、とは信仰的にはどういう事態を想定すべきでしょうか、ノアの時代の大洪水や終末でしょうか。
 やや脱線しましたが、いずれにしても、聖書を中核に据えたキリスト教信仰の実践は、常にこの社会の中で行われています。
 別の言い方をすると、キリスト者とはこの世で働く主の証人にほかなりません。
 例えば、戦争に賛成するか、反対するか、という選択を求められた際に、個人的な意見の開陳ではなく、いずれが主の御心に適うか、キリストが完成した律法(マタ5:11、ガラ6:2)に照らして御心を証すること、それがキリスト者の働きです。
 しかし、聖書の一部は信じるけれど、一部は信じないというキリスト者がそのような証人たり得るでしょうか。
 それ以上に、神さまは畑の中の毒麦を忍耐して、そのままに活かしておられるのです。
 だから、例えそれが毒麦だとしても、人間が畑に入って勝手に引き抜くべきではありません・・・神などない、神は死んだ、と主張するのでない限りは。

4 「教会」を超えた証人の群れへ

 残念ながら現代の各個教会が、上で述べたような証人の群れとして機能しているか、というと私自身は否定です。
 勿論、個人的救済の証人はたくさん与えられていますが、社会的問題についての証を述べる場としては制約が多いし、戦前に大陸侵攻を積極的に支持した教会の人々を一方的に責めることはできないと考えるのも、そうした私自身の現状認識があるからです。
 どうか私の経験をお聞き下さい。
 私自身は原発廃止論者で、暑くても寒くてもできるだけエアコンを付けないようにやせ我慢しては奥さんに嫌がられながら、実際に年間の使用日数は1週間からせいぜい2週間くらいでしょう。
 一方、私の教会には大手電機メーカーで原発の開発、建設に生涯携わり、退職後も会社のお金で何度もIAEAを傍聴に行った教会員もおられます。
 そのような教会員がいる中で、教会のオープンな場で反原発を主張することは教会員の不安や不快を招くことになるでしょう。
 まして、何期も繰り返して役員の奉仕に用いられ、教会員も一定のリーダーシップを許容する立場で接して下さっていますので、ますます、言いたい放題というわけには行かなくなってしまうのです。
 そうしたことは、多くの教会でもあるはずで、社会的なテーマについて証人として声を出すことが難しい、という現実があるのです。
 しかし、繰り返し述べているように、この社会の中で主を証することもキリスト者の大事な働きであり、喜びでもあるはずなので、いきおい、そのための組織的な受け皿を教会の外に求めざるを得ないことになります。
 実は、社会的な証をするために教会の外に組織を立ち上げることは、むしろ、その方が望ましいこと、御心に適うことでもある筈なのに、そして、過去においてはキリスト者が主体となった受け皿もあったはずなのに、私の目に映る限りでは、既存の政党や労働組合、各種の運動体などに相乗りしていく人たちの方が多いようです。
 その結果、残念なことに、例えば、今日の神奈川教区におけるような、大変遺憾な状況が出来したと言うことだと思います。
 その意味では、教会に所属して一定の責任を担う人たちが求道者とも連携しつつ、しかしそれら教会や教団の組織とは独立に、今日的状況に神の証人として向き合う共同体が今、必要とされていると思っています。
 その共同体は、教会や教団の外に建てられ、しかし、政党や労働組合の旗印ではなく、十字架の元にキリスト者と求道者が集まって建てられることになるでしょう。
 そこでは聖書を通して社会を見つめ、社会における証人という、実は預言者的な働きを通じて、いわば各個教会という「一階」部分の上に、各個教会を横断するような信仰共同体という「二階」部分、あるいは屋上バーベキュースペース?を生み出す試みになるでしょう。
 しかし、各個教会としては、そうした新たな共同体を下支えするための条件が二つあります。
 一つは、その共同体が「祈る集団」であることです。本当は、礼拝厳守、と言いたいところですが、求道者を巻き込もうとする初期の戦略を考慮するとあまりハードルを上げるべきではないでしょうし、公同の教会を離れたところで行われる礼拝にはカルト化の危険もつきまとうので、それは言いません。しかし、十字架の元に結集する以上、常に御子の名の下に祈り続ける実践だけは閑却できないでしょう。
 もう一つは、聖書を否定しないことです。批判的読解を否定するものではありませんが、その記事が虚偽だ、でっち上げだ、事実無根だと否定しないことです。教会員は復活を信じているので、そのような主張は、復活そのものを否定する不信仰の表明と受け取られるのです。
 教会役員としての経験から言って、最低限、以上の条件が満たされなければ、その新たな共同体に教会員を喜んで送り出し、必要な予算措置を講じようとしても、教会員の理解を得ることは出来ません。
 福嶋氏のセミナーをキリスト者の新たな結集地点と想定するとき、ぜひともその二点を拳々服膺していただきたいと願いつつ、その上で、現在進行形の大きな期待を表明したいと思います。


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