「律法学者」という誤訳?!


 聖書にたびたび登場する「律法学者」という言葉が誤訳だなんて、疑ったことすらありませんでした。
 だから、律法学者が一定の社会的なグループとして存在するからには、イエスやパウロの時代のエルサレムには、今日のイスラム世界におけるマドラサのような、教典を講じ、学ぶ学校があったにちがいない、そしてその教師が律法学者であり、星雲の志を抱く若き学生がパウロであったにちがいない、とずっと思っていました。
 逗子教会で使っている新共同訳も、自分で買った新改訳も、家内が持っていた55年訳もみんな、律法学者と訳しているのですから、僕だけではなく、たいていの人はこの訳を疑うことはしないでしょう。
 しかし、文語訳が単に「学者」と訳しているのに出会って、にわかにこの訳語に疑問を持ち始めました。

1 英語、フランス語、ギリシャ語を調べてみる


 私にはギリシャ語は分かりませんので、いつものようにBible gatewayで英語とフランス語の訳を調べると「scribes」という訳が多く、これは「写字生」という意味です。
 もう少ししつこく調べると「Les spécialistes de la loi」(SG21)という訳語も見られ、この場合は「法律の専門家」という意味ですが、全体の中では少数派のようです。
 それでは、原語はどうなんだろうか。
 ネットで「律法学者 ギリシャ語」と検索すると、カトリック築地教会の雨宮先生のとっても便利なサイトを発見し、「grammateus グラムマテウス 書記・律法学者」という見出し語を見つけることが出来ました*。
 ただし、先生のご説明では「新約聖書時代のユダヤ人の間では、「律法の専門家、律法に精通した学者、律法学者」を表す」とあるだけで、英語やフランス語で「写字生」という訳語が多いのに、日本語ではもっぱら「律法学者」となっている経緯の説明はありませんでした。
http://seisho.fr-amemiya.com/graecia/g/grammateus.htm


2 学問の歴史から考える

 12世紀初頭の「学者」であるサン・ヴィクトルのヒューゴーは「学習論」の中で、当時の学問を体系的に整理しています。
 また、古代ギリシャやローマの時代には自由7科目として、7つの学問分野が分類されていました。
 しかし、ヒューゴーの時代までは一人の教師が7科目すべてを一人で講じており、ようやく12世紀の後半になって、哲学や神学、法学、医学などの専門の教師が分業するようになってきました(その背景にはシャンパーニュの大市に象徴される市場経済の活発化と、これに伴う都市の成立があると思っていますが、これは脱線)。
 そのような歴史的な経過を考えると、イエスの時代に「学者」や「専門家」がいたとしても不思議はないのであり、マタイの冒頭に登場する東方の3博士とはそういう博覧強記の、まさしく「博士」と呼ぶにふさわしい賢者であった、と考えると新共同訳の「占星術の学者」という訳語は完全に誤訳です。
 また、学問分野ごとに専門の学者が分離独立していないのなら、わざわざ学者の語に「律法」を冠したはずはありません。
 以上のように、当時の社会制度や学問の歴史から検討すると「写字生」が最適、百歩譲って「律法の専門家」が次善、そして「律法学者」はさらに大きく水をあける誤訳、と考えられます。

3 誤訳が意味すること


 F.D.ソシュールいうように、すべての言語においてシニフィエ(意味されるもの)とシニフィアン(意味するもの)の関係が恣意的なものであるならば、まして、時代や地域を遠く隔てた言語に正確な訳語を当てるということは、原理的には不可能であると考えられます。
 まして、聖書は小説や実用書ではありません。
 その言葉は2000年後の私たちに向けた預言であると同時に、さらに数千年後の人たちに向けて与えられた預言でもあるのです。
 だから、当然、今の私たちには理解出来ない部分が含まれるはずであり、それらすべての言葉の意味が、この世の終わりにははじめてハッキリするという性質のものだろうと思います。
 だから、多少意味は捉えにくくとも、できるだけ意訳を控え、より狭い意味の訳語を採用し、その理解に必要な知識は礼拝説教などで補うことが本来のあり方ではないでしょうか。
 今日の話題に即していうなら「写字生」か、せいぜい「書記」と訳しておけば良いのです。
 そして、彼らが祭司階級や当時の権力者、また、ニコデモやアリマタヤのヨセフのような大商人のもとで官僚集団を構成していた可能性が高いこと、そして、今日の高級官僚の多くが東大法学部卒であるように、彼ら写字生の多くが法律の権威を笠に着る「法律の専門家」として当時の社会で力を振るったはずであること、当時の法律とはすなわち「律法」であるから、分かりやすく言うと「法律家」ならぬ「律法家」というところですが、それじゃ何だから、「律法学者」とでも理解しておいてください・・・ということを講壇から補うことが望ましいあり方だと思います。
 このことを逆に言うと、「写字生」と「律法学者」という訳語の間には、当時のユダヤ社会に対する推測や伝承、今日の学問分野ごとに縦割りになった学者社会を前提にした訳者の思い込みなどの夾雑物が複雑に絡まっているのだと思います。
 もちろん、講壇でそういう説明をするのは煩わしいという現場の先生もおられるでしょう。
 しかし、そこをどう料理するか、は、伝道の現場に任せればいいのであって、聖書を翻訳する「学者」先生が衒学的なお節介を焼くべきところではないと思います。
 一体、どうしてこんな誤訳が定着してしまったのか、考えるだけでも頭が痛くなりますが、この誤訳を訂正できない日本のキリスト教全体のあり方の方がもっと頭が痛い問題なのかもしれません。



テクストのぶどう畑で (叢書・ウニベルシタス)
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