哀れな大根のお話し(又は、「分節化」を鍵に聖書を読む)



 野菜と果物の違いとか、蝶と蛾の違いとかが良くクイズとして取り上げられますし、また、虹の色や雨や雪の呼び名に地域や民族によって多様性があることも広く知られています。

 これらのことは実は言葉による世界の分節化という、人間の知の働きを示しているものです。

 つまり世界は人間の都合に合わせて作られた物ではないのに、人間が世界の中で生きていくために、そして、それを都合良く利用するために、言葉を使って、例えば野菜と果物に、蝶と蛾に切り分け、雨や雪を呼び分けていくこと、そして、あたかも世界がその言葉のままに存在するかのごとき虚構を造り上げていくこと、それを「分節化」と言います(虚構を造り上げる働きは「構造化」と言います)。

 興味深いことに聖書の冒頭近く、創世記の2:19以下に、天地創造の直後、アダムが被造物に名前をつけて、世界を分節化していく様子が描かれています。

 つまり、私たちの言葉は私たち人間が世界を分節化するために作り出したものであり、神さまから与えられたものではない、と聖書が述べているということです。

 そして、その結果としてウソが生じます(創世記によるなら世界最初の罪は蛇の巧妙なウソでした)。

 例えば同じ畑で収穫した大根を二組に分けて店頭に置き、一方に百円の値札、他方に千円の値札を付けたとします。

 高価な大根のほうが美味しいに違いない、なにか珍しい貴重な大根にちがいない、などと私たちは考えしまいがちで、まして、お店の人が笑顔と共に一言、「お値段が違うのはちゃんとワケがあるんですよ、食べてみれば分かりますって」と仰れば、ますますそんな気がしてしまうでしょう。

 これは普通に考えるとあからさまなウソであり、その片棒を担がされる大根にとっては良い面の皮という話ですが、しかし、言葉の働きが人間の都合によって世界を恣意的に、テキトーに分節化することにある以上、そこには必ずウソが入り込む余地があるのです。

 しかし、困ったことに神さまのメッセージも言葉によって示されます(もちろん、神秘的な体験を通してメッセージをいただくと言うこともありえますが、私自身はそのような体験をしていませんので、ここでは議論のテーブルには乗せられません)。

 では、神さまの言葉はどのようなもの、あるいは形式をとるのかを、例えばウソつき商人の片棒を担がされた大根の気持ちになって考えると、多分、「僕はただの大根だよ、大根は大根だよ、大根以外の何物でもないよ、それどころか大根とか蕪だとかすずしろだとか人間が勝手に付けた名前だよ、僕は僕だよ、僕以外の何物でもないよ、勝手に畑から連れてこられてここにいるだけなんだよ」と訴え続けるだろうと思うのです。

 これを抽象化して言うと、AはAである、あるいはAがある、と繰り返し言い続けるだろう、それが人間の言葉の向こう側にある神の言葉、つまりロゴス=論理の基本的な形式になるはずであり、人間の言葉としてはトートロジー、もしくは述語を持たない主語として理解困難、であるだろうと言うことです。

 そして、そのような観点から福音書を読み進めると、そのようなトートロジー、もしくは理解困難な神の言葉が並んでいることに気づかされます。

 例えばAがBを包摂しつつ、BがA包摂する、という言い方が随所に登場します。

 また、後の者が先になり、先の者が後になる、という言葉も同じような神の言葉の特徴を示していると言えるでしょう。

 つまり、聖書のメッセージの本質は人間の言葉の世界の向こうに確かに存在し、けっして人間の言葉では語り得ぬゆえに絶対にウソやゴマカシの入り込む余地のない方への招きであると言うことでしょう。

 そして、その招きに応える時、私たちが盲目のうちに囚われている分節化という自縄自縛の罠、構造や解読格子という偶像崇拝を対象化し、そこから歩み出すことが出来るのではないか、と思います。

 しかし、その向こうに何があるのか。

 トートロジー、もしくは理解困難な神の言葉では、私たちがこの世で従うべき倫理的な指針(実定法や社会政策をも含めて)を直接に読み取ることはできないはずです。

 だとすれば偶像崇拝の向こう側へ歩み出した人間は、言葉を失い自由放任の資本主義のジャングルの中で弱肉強食の世界を歩んで行かなければならないのか。

 ここに至ってイエス様が神の言葉が受肉してこの世に来られたのは、神の言葉に従って歩む人間の言葉の姿を示すためだった、という気づきに至りつきます。

 つまり、律法を「完成するため」に来たというマタイ5:17の言葉の意味は、人間の言葉を超えた世界を歩むために「律法」をキリスト教的倫理として拡張し、その解釈と実践の指針をイエス様のお姿が示しているのだ、と気づかされます。

 だから、聖書が、イエス様に従って神の国をこの世に実現すると言うことは、実は私たちの世界の分節化と構造化という偶像崇拝を対象化する「眼」であり続けること、そして、人間のウソの片棒を担がされて、今、虚無に服している被造物(ロマ8:20)、さらには、人間性を抑圧されて労働という名の商品におとしめられている人間を発見することにあるのではないか、と思うのです。



2019年初日の出

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