末っ子ダビデ(1月27日CS説教原稿)

*今回は少し工夫しました。この原稿のタイトルと梗概を抜粋したパワポの画像を礼拝堂正面の壁面に投影してみました。折悪しく、朝日が差し込んで、非常に見づらくなってしまいましたが、試みとしては今度も続けてみたいと思いました。


【課題箇所 サムエル記上 16章】
5「平和なことです。主にいけにえをささげに来ました。身を清めて、いけにえの会食に一緒に来てください。」サムエルはエッサイとその息子たちに身を清めさせ、いけにえの会食に彼らを招いた。6彼らがやって来ると、サムエルはエリアブに目を留め、彼こそ主の前に油を注がれる者だ、と思った。7しかし、主はサムエルに言われた。「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」 8エッサイはアビナダブを呼び、サムエルの前を通らせた。サムエルは言った。「この者をも主はお選びにならない。」 9エッサイは次に、シャンマを通らせた。サムエルは言った。「この者をも主はお選びにならない。」 10 エッサイは七人の息子にサムエルの前を通らせたが、サムエルは彼に言った。「主はこれらの者をお選びにならない。」11 サムエルはエッサイに尋ねた。「あなたの息子はこれだけですか。」「末の子が残っていますが、今、羊の番をしています」とエッサイが答えると、サムエルは言った。「人をやって、彼を連れて来させてください。その子がここに来ないうちは、食卓には着きません。」 12 エッサイは人をやって、その子を連れて来させた。彼は血色が良く、目は美しく、姿も立派であった。主は言われた。「立って彼に油を注ぎなさい。これがその人だ。」 13 サムエルは油の入った角を取り出し、兄弟たちの中で彼に油を注いだ。その日以来、主の霊が激しくダビデに降るようになった。サムエルは立ってラマに帰った。

1 お話しのあらすじ

 今朝は、今から約3000年ほど前にイスラエルの2代目の王様であり、ナンバーワンの英雄、そしてイエス様のご先祖様となったダビデが神さまによって王様に選ばれたいきさつを学びます。
 まず、サムエルという人が出てきます。
 この人は、神さまの言葉を人々に取り次ぐ役目を与えられた人であり、それゆえ人々の指導者として信頼されていた人でした。
 この人に対して、神さまから、ベツレヘムに住むエッサイという人の息子たちの中から王様を選ぶことにした、という御言葉が与えられました。
 ここでベツレヘム、という地名を聞いて、ピンと来た人は聖書をよく勉強している人ですね。
 だれかベツレヘムがどういう町か教えてくださいますか?
 そう、イエス様がお生まれになった町ですね。
 話がちょっと横道にそれましたが、神さまから使わされて、サムエルはベツレヘムに出かけて、エッサイの元を訪れ、息子たちに会わせてくれるように頼みます。
 そして、サムエルは次々と7人の息子たちに対面しましたが、神さまはすべて、王様にふさわしくないと仰いました。
 その理由を神さまは、次のように仰いました。
 今日の聖書箇所の7節を読んでみます。

「7しかし、主はサムエルに言われた。「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」」

 「人は目に映ることをみるが」神さまはそうではない、と仰るんですね。
 もし、私がサムエルだったら、何だかなぁ、と思ったでしょうね。
だって、神さまがお前が行きなさいって仰ったから、わざわざベツレヘムまで来たのに、人間が見るようには見ない、つまりお前サムエルの見るようには見ない、とか言われてしまったのですから、だったら神さまがご自分で行けばいいじゃん?って、私なら思っちゃうでしょうね。
まぁ、しかし、そこはさすがサムエルなんですね。
私なんかとは信仰の練れ具合が違うんですね。
サムエルは、神さまが息子たちの中から王様を選ぶと仰ったのに、今、対面した息子たちの中から一人も選ばれないのはオカシイと思ったんでしょうね。
 だから、父親のエッサイに息子たちはこれで全部ですか?って聞いたんです。
 そしたら、もう一人、末っ子がいるが、ここには呼んでいません、今、外で羊の番をしています、と答えました。
 そこで、その子を呼び戻してサムエルが対面すると、その子こそ王様にふさわしい者として神さまがお選びになった、というのが、今朝のお話なんです。

2 一つ目のメッセージ

 この話にはいくつも大事なメッセージが含まれています。
 一つには、神さまの見方や考え方は私たちとは違うと言うことです。
だから、私たちは忍耐強く、また、謙遜に祈りつつ、一生懸命、目に見えないものに目をこらし、耳に聞こえない音や声に耳を澄まして、神さまのお考え尋ね求めなければいけないと言うことです。
(目に見えないのは私たちが見ようとしない、からですが、それはここではスルーです。)
 このことは、先ほど読んだ7節に明らかに示されています。
 そして、ここで私たちには次のメッセージへの招きが与えられています。
 それは、神さまが「心によって見る」と仰ったときに、神さまの心は何を見ておられたか、と言うことを、私たちが改めて尋ねるために、です。

3 二つ目のメッセージ
 
 そして、そこに二つ目のメッセージ、神さまは、最も小さい者として、さらに小さい者、草原の中では無防備な羊の群のために働く者、をそのご用のために用いられるというメッセージがあると思います。
 ダビデは8人兄弟の末っ子で、父親のエッサイから見るとまだまだ小さな子供だと思われていたに違いないと思います。
 しかし、神さまはそのような者こそ、大きなことのために用いようとされるのです。
 それは、ダビデが優れた力を秘めていて、やがてそれを発揮するに違いないと神さまが見込んだからではありません。
 この幼いダビデだからこそ、へりくだって、従順に忍耐強く神さまに従ってくれるだろうと思ったからです。
 ここで、私たちはイエス様の言葉を思い起こします。
 マルコによる福音書 10章 14~15節ですが、読みますので聞いていてください。

 「14 しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。 15 はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」」

 あるいは、聖書の中には後の者が先になり、先の者があとになる、という言葉が何回も出てきますね。

 創世記の一番最後には末っ子のヨセフが年上の兄弟たちを従えるような結果になったという話も出てきますね。

 つまり、神さまは人間の目で者を見るのではなくて、神さまにしたがってくれる人、神さまの恵みと信頼を信じ、従う人を求めていて、それは小さな人たちの中からこそ得られるのだということです。

 ダビデは小さな末っ子でしたが、13節にあるように「主の霊が激しくダビデに降るようになった」結果、イスラエルのナンバーワンの英雄になることが出来ました。
 それはダビデの力ではなく、あくまで主の霊の力であり、その霊の導きに従って、神の国にふさわしい者として歩み続けたからこそ出来たことでした。

4 物語の風景

 さて、以上が今朝、与えられた聖書箇所から受け止めたいメッセージなんですが、個人的にはこお箇所で一番好きなところは、ダビデが羊の番をしていた、その草原の風景なのです。
 小さくて可愛い羊の群れと、その番をしていた末っ子ダビデの姿をイメージしてみてください。
 そして、その周りに広がる緑なす草原と青い空。
 そういう美しい、豊かな世界を神さまが私たちに備えてくださったと思うと、なんだかほっこり、暖かくなるような気がするんですね。
 平和とか平安とか言う言葉がピッタリするような光景だと思います。
 ヨハネによる福音書は、イエス様の次のようなお言葉を伝えています。

「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。 」10:11
「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。」10:14

 つまり、ダビデが羊の番をしていたということが、その子孫としてイエス様がお生まれになる、ということ、そしてその誕生の証人として羊飼いが用いられると言うことなどが、この時点ですでに神さまのご計画の中にあったことを私たちに伝えています。
 そのように読んでいくと、この物語は、やがて平和と光の救い主、イエス様を神さまがお送りくださる計画を伝えようとする神さまの恵みと希望の物語だと受け止めることも出来るようにも思います。

 この物語が与えてくれる平安、希望、恵みを心にしっかり蓄えて、今日から始まる一週間も、神さまに導かれながら歩んでいきたいと思います。

 お祈りします。

 今日は少年ダビデが、神さまのお与えくださった草原で羊を飼っている姿を教えていただきました。

 神さまは私たちに必要なすべてのこと、もの、そして友人を備えてくださいます。

 どうかそのことを信じながら歩ませてください。

 この一言の祈りを御子イエス様の御名によって、おささげします。



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