ベツレヘムへ帰る('18年11月18日 中高科説教)

【課題聖句】

ルツ記  1章 16節
 ルツは言った。「あなたを見捨て、あなたに背を向けて帰れなどと、そんなひどいことを強いないでください。わたしは、あなたの行かれる所に行き/お泊まりになる所に泊まります。あなたの民はわたしの民/あなたの神はわたしの神。


1 ホームドラマのはじまり

 今朝はルツ記の第1章を読んでいきますが、この文書は、怪力無双の英雄や不思議な魔法使いが活躍するような華々しいお話ではなく、単なる、よくあるようなホームドラマです。

 そういうつもりで読んでいきたいのですが、まず、第1節は「士師が世を治めていたころ」と始まっています。

 これは大体今から三千と何百年か前の出来事、と言うくらいに理解してください。

 次に、第2節まで読みすすむと、お父さんの名前がエリメレク、お母さんの名前がナオミ、二人の息子の名前がマフロンとキルヨンという一家がベツレヘムに住んでいたと言うことが分かります。

 エリメレクとナオミがどういう経緯で夫婦になったのか、聖書の記述からは分かりませんが、ただ一つ間違いないのは、二人の男の子、つまり跡継ぎとなるべき子供をナオミが産んだと言うことです。

 当時のユダヤの社会では、お嫁さんの最大の責任は跡継ぎになる男の子を産むことでした。

 だから、結婚の経緯は分からないけれど、立派な跡継ぎも与えられ、一家は親戚たちや近所の人たちの祝福に囲まれて、幸せに暮らしていたと思います。

2 モアブの地での苦労の日々

 しかし、そこに飢饉が襲います。

 おそらく、小さな子供を抱えていたナオミたちは、たちまち食べ物にも困るようになったはずですが、しかし、国全体が飢饉になってしまったのでは、誰もこの一家を支えたり、助けたりできなかったのでしょう。

 だから、この一家はわずかな身の回りのものと食料を携えて、おとなりの国、モアブの地に移り住みました。

 ここで、ちょっとだけ地理的な説明をします。

 今日のイスラエルにある死海のという湖の西側がベツレヘムを含むユダヤ人の土地、東側がモアブ人の土地でした。

 イスラエルという国は、面積で言うと、日本の四国より一回り大きいくらい、北海道のほぼ半分くらいの広さの国ですから、まぁ、瀬戸内海の向こうとこっち、山口県と福岡県みたいな位置関係になります。

 だから、風俗習慣とか言葉とかにはあまり大きな違いはなかったろうと思いますし、それ以前から人々の交流はあったんだろうと思います。

 ただし、そうはいってもユダヤの地で食い詰めてモアブの地に流れ着いた一家が生活を再建することは、きっと大変だったろうと思います。

 ルツ記の第2章に麦畑で落ち穂拾いをする光景が登場しますが、おそらく、ナオミは落ち穂拾いをし、お父さんと子供たちは農繁期の手伝いをしたり、ロバを借りて荷物を運んだり、などなど、モアブの地元の人たちが嫌がるような日雇いの重労働で働いていたに違いありません。

 ひょっとすると、色々の歴史的な経過もあって、ユダヤ人だからと言うことだけでイジめられる、と言う場面もあったかもしれません。

 そして、重労働のせいでしょうか、あるいは今風に言えば過労死なんでしょうか、とにかく、ほどなくしてお父さんのエリメレクが死んでしまいます。

 一家の大黒柱を失ってナオミの悲しみと嘆きはいかばかりだったかと思いますが、とにかく、子供二人が残されていますので、それはそれは、必死になって二人の息子を育てたんだろうと思います。

 そして、やがて息子たちが大きくなって、お嫁さんを迎える年頃になりました。

ナオミとしては、本当は先祖のイサクのように故郷の地からユダヤ人のお嫁さんを迎えたかったんでしょうが、そこは貧しい母子家庭ゆえ、結局はモアブの地の同じような貧乏人の家庭から、ルツとオルパを二人の息子たちのお嫁さんとして迎えました。

 ところが、今度は、その大切な二人の息子も死んでしまいます。

3 絶望の底で

 この大事な瞬間を聖書は簡単に述べていますが、その時のナオミの気持ちどうだったでしょうか。

 色んな記憶が彼女の頭をよぎったろう、と思います。

 二人の男の子を授かって幸せだった新婚時代、飢饉を逃れてモアブにやって来たころ、夫の死という大きな悲しみ、その後の親子三人で必死に生きてきた日々、そしてやっとお嫁さんを迎えて一安心と思っていた日々。

やっと暮らしが落ち着いたと思ったら、今度は息子たちが相次いで死んでしまった。

 生涯をかけて、必死に築き上げてきたすべてが失われた、もう、すべては終わった、もはや、この地で朽ち果てるしかない、これこそ神さまが自分に用意した道だった、と絶望し、もはや何もする気力も起きなかっただろうと思います。

 ところが、こうやってナオミの絶望に寄り添ってみたときに、大きな疑問が与えられます。

 つまり、聖書はまたもや簡単にナオミは「国に帰ることに」した、と書いていますが、でもなぜ、ナオミはベツレヘムに帰ろうと思い立ったのでしょうか。

 神も仏もあるものか、どこに行ったって何一つ良いことなんかあるはずない、体力も気力も萎え果てて、もうここで死ぬだけだ、というところまで追い詰められたナオミがなぜ再び立ち上がろうとしたか。

 ルツ記の6節は、その理由を次のように述べています。

 「主がその民を顧み、食べ物をお与えになったということを彼女はモアブの野で聞いたのである。」

 皆さん、これはどういう意味でしょうか。

 ベツレヘムでは、かつて神さまが荒野でなさったように、毎朝、マナを降らせてくださっていると、ナオミが思ったと言うことでしょうか。

 あるいは有り余るほどの食べ物があふれていて、貧乏人に配っていると、思ったんでしょうか。

 もし、ナオミが神さまに対する信仰を持ち続けていたのなら、それもあり得たかもしれない。

 でも、ナオミは神さまを忘れ、信仰を捨ててしまって、絶望のどん底にいた人でした。

 だとすれば、ナオミが再び立ち上がったのは、別の理由があったはずです。

 ここで初めて私たちはナオミとともに神さまの声を聞き、その光を見ることになります。

 ナオミは神さまを捨ててしまいました。

 しかし、神さまはナオミを見捨てることはしませんでした。

 神さまは、癒やしと励まし、そして慰めの光を彼女に与えてくださったのです。

 だからこそ、彼女は再び希望を持って立ち上がろうとしたのだと思います。

 そのように考える根拠は何か。

 ローマの信徒への手紙15:13にあるとおり、神さまこそ、希望の源であるからです。

 また、そもそも土の塊でしかなかった人間に、鼻から息を吹き込んで立ち上がらせたのは神さまご自身です(創世記2:7)。

 だから、ナオミに力と希望を与え、ベツレヘムへの旅に向けて再び立ち上がることを可能にしたのはナオミ自身ではなく、神さまだったと言うことです。

 ただし、ナオミに、神さまの声を聞き、光を見た、という自覚があったかどうかは分かりません。

 むしろ、その自覚はなかったと言うことを示すために、聖書は先ほどの6節のような記述をしているのかもしれません。

 そして、もう一つ大事なことは、神さまは同じように大切な夫を失って悲しみに沈んでいたモアブ人の二人のお嫁さん、ルツとオルパにも、同じように再び立ち上がる希望を与えてくださったと言うことです。

 神さまはユダヤ人であろうがモアブ人であろうが、お構いなしです。

 悲しみの中にいる人、苦しみの中にいる人、すべてを見ていてくださるんです。

 だから、3人は再び立ち上がる力を与えられ、連れだって神さまが招いてくださったベツレヘムに旅立ったんです。

 ここでルツ記が私たちに伝えようとしている一つ目のメッセージが明らかになります。

 それは、私たちが神さまを見捨てても、神さまは絶対に私たちを見捨てない、と言うことです。

4 ナオミの大失敗

 ところが、そのベツレヘムへの道中で、ナオミはとんでもない罪を犯してしまいます。

 せっかく神さまがベツレヘムに導こうとした二人のお嫁さんにモアブの地に帰るように言ったのです。

 ナオミは、神さまがベツレヘムにお招きになっていることも、その地での暮らし向きを神さまが守ってくださることも、信じられなかったんです。

 神さまに励まされ、力を与えられて旅立ったのに、そのことを分かっていなかったんです。

 私たちの教会でも、こうした悲しい失敗が時として起きてしまいます。

 せっかく教会に通い始めた人を、心ない傲慢な一言で追い払ってしまうようなことが起きてしまいます。

 私たちもナオミも人間である以上、悲しいことではありますが、罪を犯してしまうのです。

 その結果、お嫁さんの一人、オルパはモアブの地に帰ってしまいました。

 しかし、ルツはナオミの言葉を退けて、神さまの言葉に従いました。

 つまり、ナオミと違って、ルツには、自分が神さまの声に導かれ、励まされて歩き始めたことが分かっていたんだと思います。

 ルツ記をさらっと読むと、ルツはナオミに従ってベツレヘムに行ったように読めますが、本当はそうではなく、神さまに導かれ、神さまに従い、神さまとともにベツレヘムに行ったんです。

 それは今日の聖句の中の「あなたの神はわたしの神」という言葉にハッキリと示されています。

 ここで、私たちはルツ記の伝えようとしている二つ目のメッセージに出会います。

 それは、神さまの招きと祝福をいただいて歩き始めたら、どこまでも神さまに聴き従いなさい、と言うことです。

 教会では礼拝厳守ということを教えますが、その真意はそういうことなんですね。

 それは私たちが神さまに向かって歩き始めたのは、私たちの決めたことではなく、神さまの決めたこと、だからこそ、最後までその道を歩みきらなければならない、と言うことなんですね。

 さて、今日与えられた第1章のお話はここまで、です。

このあと、ナオミとルツはベツレヘムにたどり着き、そこで色々の出来事があった後、私たちみんな、つまり3000年後の東アジアに暮らす私たちも、モアブに帰って行ったオルパも、亡くなってしまったお父さんや息子たちも含め、みんなが大きな祝福に入れていただける道が開かれるのですが、そのお話は来週、Kさんがしてくださるので、私からは申し上げません。

5 結び

 そういうわけで、今日は二つのメッセージを心に覚えて帰ってほしいと思います。

 一つ目のメッセージ、それは、私たちが神さまを見捨てても(ここ大事ですよ)、私たちが神さまを捨ててしまっても、神さまは絶対に私たちを見捨てない、と言うことです。

 二つ目のメッセージは、神さまの招きと祝福を受けて歩き始めたらどこまでも神さまに従いなさい、と言うことです。

 では、祈りをもって終わりにします。

 天の国の父なる神さま

 私たちを御国にふさわしい者に作り替えてください。

 神さまの恵みを一つ一つ丁寧に味わって、その喜びを宣べ伝えるものとしてください。

 私たちの今日から始まる1週間の歩みを、お導きください。

 この祈り、尊き御子イエス様の御名によっておささげします。

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