クリスチャンの倫理的責任について(中間的とりまとめ)


 自分の中でどうしても気になっていることがある。

 ただ、現時点ではまだまだ生煮えであって、L.デュモンの「個人主義」に関する論考、M.ウェーバーの古典的著作などをもう少し勉強した上でなければ、結論には至らないと思っている。

 しかし、モヤモヤしているモノをこの時点で少し書き出してみて、今後の勉強に集中できるようにしたい、というのが本稿の目的である。

 さて、教会が社会にどう関わるべきか、というのが問題意識である。

 個人の救い、個人の苦難に神が働きかけ、支えてくださる、ということを伝えていくことは教会の重要な役目である。

 しかし、個人を支えることだけで良いのか。

 個人は常に社会の中で生活しており、その社会との接点の部分や社会そのものに対して一定の働きかけを求められてはいないだろうか。

 もとより、教会が寿町の炊き出しセンターになるべきとか、基地反対闘争の団結小屋として機能すべきとかの如き短絡的かつ手前味噌な主張をしようとするものではない。

 ただ、個人の内面の救済のみを追求し続けるなら、それはアマチュアカメラマンの同好会やラーメンマニアの寄り合いのようなものになっていくだろう。

 もし、教会がラーメンマニアの寄り合いになったら、家系派、背脂派、はたまた、つけ麺派などと分裂していき、互いに怪文書が飛び交うような事態を招来するに違いないし、我が教会の歴史と現状を顧みると、まさにそのとおりの推移を経てきたと言わざるを得ない。

 そうした事態を生じないためには、キリスト者一人一人が、また、そうした人たちの霊的交わりとしての教会が社会の中でどのような役割と責任を担っているのかという点について、単に福音の伝道宣教ということだけではない、付加的な何かを追求する必要があるのではないだろうか。

 あるいは、ひょっとすると教会やクリスチャンの社会的な責任に立脚して初めて、伝道宣教がなし得るのではないか。

 西欧諸国や日本の教会の後退の背景にはそうした事情があるのではないか。

 現に、ナチスに協力したドイツの教会や軍部の戦争遂行に協力した日本の教会、つまり社会に対して倫理的な主張を行わなかった教会が衰退しているではないか。

 しかし、上述のように社会運動のための団結小屋に変質することを拒否しつつ社会的役割を追求するためには、現実問題として、聖書に基づいてキリスト教的倫理を追究し、それに反する社会的な制度や動きに対して異論を唱え「抵抗」していくことが唯一の選択肢ではないか。

 それが教会とクリスチャンの社会的な責任なのではないだろうか。

 「神の国と神の義」を追い求めると言うことはキリスト教的な倫理の社会生活の場面における実践を言うのであり、「最後まで耐え忍ぶものは救われる」というのはそうした倫理的な抵抗のすすめなのではないか、というのが、現状における仮の結論である。



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