フィリピ1:9~10で「啓示」をたずねる

 新共同訳のフィリピの信徒への手紙 1章 9節から10節にかけて、次のようなセンテンスがあります。

 「知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、 本当に重要なことを見分けられるように。」

 この言葉、よくよく考えたら、ちょっと変な感じなのです。

 「知る力と見抜く力とを身に着け」るということ、
 「愛がますます豊かに」なるということ、
 「本当に重要なことを見分けられる」ということ、

 この三つの関係が分かりません。

 例えば、小さな子供に「たくさん食べて、大きくなってね」と言ったとします。

 すると「たくさん食べる」という原因があって、「大きくなる」という結果を述べている表現になります。

 だから、例えば日本語の語順としては、「知る力と見抜く力とを身に着け」て、その結果、「本当に重要なことを見分けられるように」だったら、特に違和感はないだろうと思います。

 しかし、「あなたがたの愛がますます豊かになり」というのが邪魔なんですね、そうなると。

 そこでネット検索して、英語訳(NET)を見ると次のように訳してあります。

your love may abound more and more in knowledge and depth of insight, so that you may be able to discern what is best

 これを上の日本語訳のように分解すると

パーツその1 your love may abound more and more=あなたがたの愛がますます豊かになり
パーツその2 in knowledge and depth of insight,=知る力と見抜く力とを身に着け
パーツその3 so that you may be able to discern what is best=本当に重要なことを見分けられる

 と同じようになりますが、ただし、英語訳の方が3つのパーツの関係がより詳しく見て取れます。

 まず、文章の骨組みは「あなたがたの愛がますます豊かになり」そのことによって「本当に重要なことを見分けられる」ようになって欲しい、であり、それがパウロの祈りだったということが分かります。

 では、この骨組みに「知る力と見抜く力」がどう関係しているのか。

 ここで前置詞「in」の読みが難しい。小宮山先生がギリシャ語の解きあかしをして下るときにも、この言葉、日本では「内に」と訳すべき言葉にこだわって、丁寧にお話をしてくださっていることを思い出します。

 では、どう読むか、と言うと一つは小宮山先生に従って「内にあって」という訳が多分、語義にそった読み方、または、日本語として「こなれ感」のようなものを重視するなら、「よって」とでも訳すのが適当かもしれません。

 すると次のような二つの訳文の候補が生まれます。

候補1
「知る力と見抜く力との内にあって、あなたがたの愛がますます豊かになり、 本当に重要なことを見分けられるように。」

候補2
「知る力と見抜く力とによって、あなたがたの愛がますます豊かになり、 本当に重要なことを見分けられるように。」
 
 しかし、こうして眺めてみると、論理的な連関は確かに明確ではあるけれど、今度は「知る力と見抜く力」と「愛が豊かになる」ことの具体的な繋がりや働きがよく分からない、というそもそもの疑問が立ち返ってしまいます。

 要するにどう訳しても疑問が残るのなら、前置詞「in」を「身につけて」と訳した新共同訳も、まぁ、苦心の訳だったのね、ということに落ち着くわけですが・・・

 しかし、もし「知る力と見抜く力」が神さまから与えられる啓示を指すとすれば、「身につける」という訳は明らかな誤訳です。

 なぜなら、啓示は人間の外から訪れて内側に住まうものであって、洋服や武具のように「身につける」物ではない・・・だろうと思うからです。

 僕自身、啓示という言葉の意味がよく分かっていないという反省も踏まえつつ、今の日本の(世界的にも?)教会が啓示を軽んじていることの一端がこんなところに現れているのかもしれません。


*「depth of insight」は本当は「(知恵を)深く探求すること」とでしょうが、ここではパス。

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック