「”意味”と”姿”」2018年7月8日 CS中高科説教



本稿は聖書のマタイによる福音書 5章 13~16節についての説教原稿ですが、中高生に語りかけるには、若干、哲学的アクロバットに走りすぎたとの反省もあり、結果的にボツにしました。しかし、自分としては気に入っているので、記録に残しておきます。


1 アダムとイブの選択の自由

 今朝の聖書箇所はクリスチャンの生き方を示す有名な言葉、つまり「地の塩、世の光」というワンセットの言葉を含んでいる、とても大切な箇所です。

 でも、地の塩、世の光とは何でしょうか。

 色々な説明がありうると思うし、実際、ずっと色々悩んでいたんですが、今日は、全然関係ないところから、話を始めたいと思います。

 この世の初めに、神さまはエデンの園にアダムとイブをお作りになりました。
そして、そこで仲良く暮らしていた二人が、蛇に誘惑されて罪を犯し、楽園を追放されたというお話は皆さん、よく知っていると思います。

ところで、その後、二人はずっと一緒に暮らし続けた、というのはよく考えると不思議な話だと思うんです。

 もちろん、神さまがアダムを助ける働きのためにイブを作ったと言うことはあると思います。

 しかし、アダムにしてみれば、イブが善悪の木の実をとってきて、食べろって言ったから食べたのに、結局、神さまの怒りを買って楽園を追放されることになった。

 だから、すべてはお前のせいだ、って思ったはずですよね。

 逆に、イブにしてみると、神さまの前で、すべてはコイツが悪いんですと逃げを打った卑怯者アダムは絶対に許せない、って思ったはずですよね。

 だから、二人はエデンの園をでた時点で、右と左にさよならして行くことだって出来たはずですよね。

 実際、私たちの周りにだって、愛し合って結婚したはずのカップルが数年でお別れしてしまうお話はたくさんあります。

 こないだラジオを聞いていたら結婚後、15分で離婚して世界最短記録を作ったというカップルが誕生したそうです。

だから、神さまが二人を楽園から追放したときに、二人の行く末をどう思っていたんですか、と神さまに聞いてみたくなるんですね。

一つの考えとしては、私たちの髪の毛の一本一本まで数え上げておられる神さま(マタイ10:30)ですから、アダムとイブがどうするか、最初から分かっていた、あるいは神さまが計画したとおりになることに決まっていた、という考え方もあると思います。

しかし、私は、そうは思っていません。

おそらく、神さまは、二人を楽園から追放した時に、二人がバラバラの道をいって、結局、神さまが思い描いたような世界が実現しないままに、それぞれにどっかで野良犬や野良猫のように死に絶えるかもしれないとドキドキ、ハラハラしていたのではないかと思うのです。

いいですか、もしアダムとイブの二人が別れ分かれになってしまったら、今の私たちも私たちを生んでくれた両親もその両親もご先祖様もこの世に生まれてこなかった、と言う結果になるんですよ。

神さまにしてみれば、ぶち壊しも良いところ、だったと思いますね。

だから、神さまは本当にドキドキ、ハラハラしていたんじゃないか、と思うわけですよ。

実は、この問題は自由意志か予定調和かという長い歴史を持つ大問題なのですが、私が自由意思説をとっています。

その理由はとってもシンプルで、そのほうが私たちが聖書を読むときに神さまと一緒にドキドキ、ハラハラできて、楽しいからです。

そして、神さまによって自由意志を与えられ、それを行使したアダムとイブ夫妻やその子孫の暮らし、つまりその「歴史」に神さまがどう介入されたか、そして、今ここに生きている私たちの信仰と暮らしにどう介入されようとしてるのか、という視点で聖書を読む方が恵みにあふれているからです。

 しかし、そのように自由意思説を採る私ではありますが、実はその一方で、予定調和説を支持する者でもあります。

 つまり、私たちには自由意志が与えられている。

 しかし、本当に大事な場面では、選択肢はいくつかあるのだけれど、自分が選べるのは一つしかない、それが私たちの現実だと思うんです。

 アダムとイブの話に即して言えば、彼らにとっては、色々のことを現実的に考えていくと、一緒に生きてくという選択肢しか残されていなかったんだと思います。

 皆さんだって同じような場面に立つことがあり得ます。

 例えば、第1志望の学校に落ちちゃって、浪人か、第2志望の学校か選択しなければならない、そういう立場になったら、皆さんはどうしますか。

 いずれを選んだとしても、とりあえずは砂を噛むような味気ない日常が始まるんだろうと思うんです。

 あるいは、お先真っ暗な気持で日々を送るようになるかもしれません。

 さぁ、だんだん、「地の塩、世の光」の話に近づいてきました、もう少し辛抱して付き合って下さいネ。

2 肉の身体に閉じ込められて生きる

 さて、そこで、次なる疑問、すなわち、なぜ私たちにはたった一つの選択しかできないのか、という疑問に向き合ってみましょう。

その答えは、私たちが、この肉の身体に閉じ込められている存在、あるいは肉の身体を伴っている存在だから、とうことです。

 つまり、自分の身体を半分にして、ためしに第2志望だった学校に通いながら、もう一方は予備校に通って来年の再チャレンジを目指す、なんてことは出来ないからです。

 そして、私たちが肉の身体のなかで生きている以上、その身体の食べるものや住むところ、着るものなんかのためにあくせく、額に汗して働かなければならない。

 その挙句、やがてアダムとイブがそうであったように年老いて死んで朽ち果ててしまう、そういう存在だということでもある。

 つまり、肉なる身体に閉じ込められて生きるというのは、そういうことだと言うことです。

 しかし、それはイエス様がこの世に来られるまでのことです。

 イエス様の受難と復活の後には、私たちがこの世を生きていく「意味」が180度、ひっくり返ってしまいました。

 念のために言うと、「意味」がひっくり返ったのであって、生きていく「姿」は変わらないんです。

キリスト者であってもなくても、この世ではアクセクせざるを得ないんです。

でも、そのアクセクする「意味」がひっくり返った、と言うことなんです。

 ここでちょっとだけ脱線させて下さい。

 今の議論を文明論的に、あるいは、哲学的に一般化して言い換えると、「自然」をつくりかえることは出来ないけれど、「文化」を作り替えることは出来る、ということになります。*

 そして、文化を作り替えることで、自然の利用の仕方を変えることが出来て、結果的には自然を変えることが出来たという錯覚に陥る場合もあり得ます。

 だから「文化」を良い方向に作り替えることは、「自然」の正しい利用に私たちを導くことになりますし、逆もまた真であって、今、私たちを取り巻く環境問題や医療や教育、福祉を巡るさまざまな矛盾は、「文化」を悪い方向に作り替えてきた、そして「自然」の利用方法を誤ってしまった結果だと言えるのです。*

 だから、私たちの生きる「姿」は変わらないけど、その「意味」を変えていくと言うことは、一見、無意味で無力なお話に聞こえるかもしれないけれど、けしてそうではないんです。

それどころか、私たちはただ一つ、「意味」を変えていくことしかないできないんです。

 そういう認識に立った上で、改めてお話の本筋に立ち返ってイエス様の前と後では私たちの生きる意味が、どうひっくり返ったかをもう一度、問い直してみますが・・・

 例えば、私たちは楽園から追放されて、当てどなくさまよう人ではなくなった、と言うこと。

 そうではなくて、神さまの国、イエス様がそこに暮らしておられると言う点ではエデンの園を遙かに上回るような楽園に向かって歩む人になったと言うことです。

 また、この世の誘惑に惹かれて故郷を捨てていった放蕩息子(ルカ15:11~)のように惨めに生きるものではなく、イエス様の兄弟姉妹として、ともに天の国を受け継ぐ者とされたと言うことです。

 私たちが「天にまします我らの父よ」と祈っていることを思い出して下さい。

それは、私たちが神さまの子供であり、神さまの長男であるイエス様の兄弟姉妹だということを神さまによって確認していただいている、ということなんです。

 そして、イエス様はそういう私たちに、地の塩、世の光であれ、と仰いました。

 イエス様のことを独り占めにせず、イエス様と共に、イエス様に支えられて歩くあなた達の「姿」をみんなに示しなさい、と仰るわけです。

そうすればその「姿」が変わらないけれど、生きていく「意味」が変えられたあなた方を見た人々は「天の父をあがめるようになる」と仰るわけです。


3 「立派な行い」とは何か

 しかし、最後にもう一つ大事な議論をしなければいけない。

 誰か今日の聖書箇所の16節を読んでくれませんか?できれば一言一言かみしめて読んでくれませんか?

 今、読んでいただいた聖句にある「立派な行い」という言葉は、人間の物差しに照らして立派、と言う意味ではありません。

 あくまでも、イエス様の物差しに照らして「立派」と言う意味です。

だとすれば、私たちは具体的には何を選択し、どういう日常生活を送れば「立派な行い」と、イエス様に言っていただけるのか、ということが次なる大事な課題になってきます。

さっき言ったように、「姿」は変えられないし、変える必要はないんです。

そうではなくて、「姿」はそのままでいいから、私たちの「意味」を変えなさいとイエス様は命じておられるのです。

そして、私たちが謙遜な気持でそれを願えば、変えていただくことが出来るのです。

では、どういう「意味」に作り替えていただけば良いのか。

先ほど言ったように、私たちに選択出来る「姿」はただ一つしかありません。

だとすれば、その大切な選択肢をイヤイヤながらではなく、心から喜び、感謝して選択すべきです。

逆に言うなら、わざわざ自分の人生と日々の暮らしにケチをつけて、自らの道を暗くするのは、無意味ですよね。

(ヨブ記の終わりのところに「神の経綸を暗くする者」という、非常に分かりにくい言葉がありますが、要するにそういうことなのかもしれないですね、)

むしろ、イエス様の塩で美味しく味付けされ、その光に照らされた日々を感謝し、喜び、祈りながら歩めばいいんです。

また、毎週の礼拝を厳守して三位一体の神を賛美し、毎日、聖書に親しんでみ言葉の恵みを受ければ良いんです。

さらに多くの喜びを得たいと思ったら洗礼を受けて、神さまに自らを献げる決意を告白し、お支えいただくようにお願いすれば良いんです。

そして、聖餐式を通してイエス様という光、塩味、救いの約束を私たちの身体の内側に目に見える形で与えていただけば良いんです。

イエス様が私たちに奨める「立派な行い」というのは、そう言うことです。

そして「立派な行い」を突き詰めていくと、ゴルゴダの坂道を十字架を背負って登っていったイエス様と共に、脇見をせず、額に汗をかき、息を切らせながら、「信仰」の坂道を登っていくと言うことになります。

皆さんが、肉の身体を通じて感じる痛みや苦しみはすべてイエス様のもの、イエス様と共にあるもの、イエス様から分け与えられているの恵みである、と言うことです。

言い換えると、肉の痛み、つまり「姿」の痛みは「意味」の痛みではないと言うことです。

この最後の部分は、中高生の皆さんには分かりにくい、それどころか抵抗感や違和感、ひょっとすると恐怖感をあたえるものかもしれないですね。

でも、ここがイエス様の体なる教会である以上、イエス様の苦難と復活のことを我がこととして言い表すように、私たち教師は命じられているのです。

それも含めて、今日の私のお話が、皆さんに「立派な行い」をしようという志を与える上で、少しでもよくイエス様に良く用いられるよう、願っています。

お祈りします。

天の国の恵み深き神さま。

神さまは私たちを苦しみの器ではなく、喜びの器としてお作り下さったことを信じます。

どうか私たちのうちに主とともにある喜びを豊に注いで下さい。

中高生の諸君を守り、その生きる意味を発見できるように導いて下さい。

この一言の祈り、御子イエス様の御名によって御前にお献げします。

*可能/不可能ではなく、謙遜/傲慢の対立、自然を作り替えることは許されないが、文化を作り変えることはまだしも許される、と解すべきかもしれない。原子核を崩壊させてエネルギーを取り出すことの可能/不可能を論ずる前に、謙遜/傲慢を論ずるべきであった。パレスチナ人を攻撃するアメリカ製の最新型戦車は暴力であり傲慢と言うべきだが、その戦車に向けて投げられる石つぶては暴力ではないし、むしろ賞賛されるべき積極的で犠牲的な謙遜かもしれない。出生前診断はどうだろう。神さまが差し出した杯を取り去って下さいと願うことは正しい。イエス様だって願ったんだから。だから産児制限や人工妊娠中絶は正しいし、それを否としているのはキリスト教だけだ。しかし、いただいた杯を味見して、口に合わないからと言ってこれをお返しすること、これは傲慢と言わざるを得ないだろう。

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