「ヨブ記」黙想



ジャック・エリュール*は旧約聖書の中に最も古い弁証法的思考が見られるとした上で「掟→不服従→審判→和解」という神と人との関わり合いが繰り返し描かれていることをその根拠としてあげている。

 このエリュールの主張は全面的に首肯しうるし、実際に旧約聖書の世界にはたくさんの執り成しと和解の物語があるので、いちいち例を引くことすら煩雑に感じられるほどである。

 このことを逆に言うなら、旧約聖書が描き出しているのは、これまで私たちが漠然と考えていたような因果応報や教条主義的な世界ではない、ということを示唆しているように思われる。

 むしろ、モーセのような救済と執り成しの働き手の、あるいは、権力から排除されたエレミアのような預言者達の、また、権力と共にあったダビデやソロモンのような王、エズラのような行政官、ネヘミアのような祭司の執り成しの物語として旧約聖書は読むべきではないだろうか。

 そして、それ故にこそ、ユダヤの民のそのような熱望に応えて神さまは最後の、そして究極の執り成しの主、イエス・キリストをユダヤの民の中に与えられたのだし、その後のユダヤ人達が何人もの偽メシアを信じたのも、そうした旧約聖書理解に立ってのこと、だったのではないだろうか。

 そのような理解にたってヨブ記を読むと、この文書が旧約聖書の中で唯一、執り成しの働きをする者が登場しないという点で、とても異色の文書であると考えざるを得ない。

 この文書に登場するのは義人ヨブと彼に紋切り型の詰問を繰り返す友人、そして最後に神さまご本人だけである。

 上で例示するような執り成しの働きをする人物はひとりも出てこない。

 その理由を解き明かすことは絶対に不可能だけれど、ヨブ記の読み手にとって一つだけ明らかなことは、この文書を作り出した人々がユダヤ人の間で根強かったメシア=執り成しの主待望に対して否定的であった、ということである。

 私はヨブ記=戯曲説に立つ者であるが、それゆえ、この文書が捕囚期間以降の、しかもギリシャ文明の強い影響を受けたユダヤ人社会で成立した可能性が高いと考えている。

 だとすれば、この文書の最後に登場する神様は、その偉大さの故に愛と和解の神であるユダヤ民族の伝統的な神ではなく、無慈悲で自己中心的なギリシャの神々の中でも最高神である、ゼウスなのではないだろうか。

 そして、ユダヤ教の装いのもとにギリシャ的な文化を受け入れるように人々に促すことが、この文書の真の意図だったのではないだろうか。

 だとすれば、ヨブ記の正しい読み方は、私たちの信ずる神さまがどのようなお方で「ある」かを指し示す文書として読むのではなく、どのようなお方で「ない」かを指し示す文書として読むことではないだろうか。
 
 それとも僕の信仰がどこかで御心を踏み外しているのだろうか。

*「現代人は何を信ずべきか」 ジャック・エリュール 伊藤晃訳 春秋社 P64参照 ISBN4-393-21607-5

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