洗礼と原罪 2018年1月14日 CS中高科説教補遺

 洗礼と原罪の認識は対になるものだと思います。

 とうか、普通に考えると、原罪の認識が一つの動機となって、洗礼という行為に導かれる、という流れのように思われます。

 しかし、現実問題として、多くのクリスチャンが洗礼の前にどれほど原罪を理解していたか、というと、私の場合も含めて正直、疑問を抱かざるを得ません。

 愚考するに、むしろそれが当然で、原罪はイエス様という光によって初めて照らし出されるものだと思うからです。

 「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」(ヨハネ1:5)

 まず、洗礼を受けて暗闇から脱出しよう歩き出さなければ、光を見いだすことは出来ないし、光を見いださなければ私たちが属している原罪という暗闇を発見できないのだと思います。

 しかし、それは普通に考えると無茶苦茶な話です。

 だって、原罪の認識を得るためには洗礼が必要であると言いつつ、洗礼を受けるためには原罪の認識が必要と言っているからです。

 ニワトリが先かタマゴが先かという議論をする以前に、ニワトリもタマゴも手に入らないという不条理な話、とでも言えば、少し分かりやすいでしょうか。

 だとすれば、誰かに洗礼の決意を与えるのは人間の理屈や是非善悪の判断ではない、と考えられます。

 洗礼者ヨハネのもとにたくさんの人がやってきて洗礼を受けたのは、律法に照らして自らの罪を発見し、それを清めることによって自分とイスラエル全体の救いを願ったからに違いありません。

 つまり、洗礼者ヨハネの洗礼には、律法を前提とした罪の認識というタマゴがあって、洗礼というニワトリが生まれたと言うことでしょう。

 しかし、イエス様の洗礼はどうなのでしょうか(*)。

 「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。」(ヨハネ3:5)

 ここで注目すべきキーワードはひとつは「水と霊」、もう一つは「生まれなければ」という言葉です。
 
 まず、「水と霊」について考えます。

 この言葉の普通の理解としては、洗礼者ヨハネの洗礼は水によるものでしたが、イエス様は「水と霊」によるものだ、ということで差し支えないでしょう。

 だとすれば、 誰かにイエス様の洗礼を受ける決意を与えるのは人間の側の、人間に属する何かではなくて「霊」によるものと考えると良さそうです。

 次に、「生まれなければ」というのはどういうことでしょうか。

 人は生まれた途端に大人になるのではない、と理解したいと思います。

 原罪がタマゴで洗礼がニワトリなのではなくて、逆に洗礼がタマゴであって、原罪という暗闇とイエス様という光に向かって生まれ、日々、成長すること、というニワトリが「聖霊」によって与えられる、ということではないでしょうか。

「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。」(2コリ4:16)

 ここで、パウロが言おうとしている「日々新たにされる」というのは、そのような成長をさして言うのかもしれません。

 そしてその成長の最後にあるアララト山の先に、天の国があると思っています。

 ところで、今回のCS説教は非常に難しかった。

 前回の時も原稿を4回書き直しましたが、今回は11回の書き直しをしました。

 一番最初の原稿は12月初めだったので、1ヶ月以上、考え続けました。

 でも、おかげで上のような気づきが与えられました。

 この奉仕に用いて下さった、神様と教会の仲間に、そしてご指導いただいた先生に感謝したいと思います。


*洗礼者ヨハネの洗礼とイエス様の洗礼の違いについては使徒言行録19:1~7参照。
 

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