「考える」ということを考える

 僕は子供の頃から、「考える」ということを考えてきた。
 別の言い方をすると、人が「考える」ときに、どういう方法で、どういう道具立てで、どういう材料で考えているのか、と考えてきた。

 なぜ、そうなったのかよく分からない。
 一つ考えられるのは、小学校一年生の3学期に、札幌から室蘭へ転居したとき、室蘭の子供たちに「なまいきだ」といじめたれたことがきっかけだったのかもしれない。

 札幌は今も共通語に近い言葉づかいだけれど、50年ほど前の室蘭はまだ東北弁の影響が強い方言があって、彼ら室蘭の子供たちには僕の札幌の言葉遣いに違和感や反感があったのかもしれない。

 また、僕の気持の中にも、生まれてからずっと一緒だった幼なじみたちに後ろ髪引かれる思いが強く残っていたのかもしれない。

 いじめの原因はそんなことだと思うけれど、その当時の僕には「なまいき」という言葉の意味がまず分からなかったし、まして、自分に暴力を振るったり排除しようとする子供たちの行動は理解に苦しむものだった。

 だから、冒頭に述べたような疑問を抱いたのかもしれないが、今となってはあまり重要なことではない。

 とにかくそういう疑問を抱いて、心理学や精神分析の本を読んだけれど、行動や病理の原因を追及するという問題意識と、純粋に「考える」と言うことの構造というか、体系というか、機序というか、とにかく、そういうものへの興味とは明らかに違っていた。

 そこで哲学が近いかと思ったが、実は哲学というのは、今日、様々に分離独立した諸学が未分離な状態の過去の学問であって、これが一番、的外れだった。

 レヴィ・ストロースのミトロジーが近いかもしれないと思ったが、当時は翻訳がなく、やっと大学の最終年に吉田敦先生の授業で少しかじるくらいが関の山で、今は、邦訳も出ているけれど、今思うと僕の問題意識とは少し違うようだ。

 ただし、ヴィトゲンシュタインの論理哲学だけは多分、自分の思い描いた問題意識に近いものだったし、その意味では、次に再読したい本の重要候補ではある。

 しかし、若い頃のそうした問題意識は社会人生活を経てやや変質してきた。

 その結果、ヴィトゲンシュタインは静止画像、あるいは純粋な結晶の描写、記述としては適切ではあるが、もう少し、動的な考究が必要ではないか、と思うようになっいる。

 その意味では、経済学や人工動態学などを総合した歴史学を目指したブローデルの著作は非常に興味深い。

 また、エマニュエル・トッドや、彼ら社会学者のさきがけであったらしいデュルケムなどももう少し深めてみたいと思っている。

 後先になったが、動的考究ということは、別に難しいことではなくて、その時代時代に人々が何か目に見えないものに突き動かされ、拘束されてしまっている「神話」のようなものが存在している一方、その部分の検討がヴィトゲンシュタインにはないので、ものたりない、ということである。

 具体的には戦前の日本における現人神神話、今日の日本における経済第一主義神話、あるいは欧米における移民排外神話のようなものが、なぜ我々の「考える」やり方に入り込むのか、ということ。

 クリスチャン的な言い方をすれば神の言葉ではなく、悪魔の虚妄がなぜ社会を覆うのか、ということでもある。

 そのような神話の存在を問題にしている人たちの色々の著作をもう少し、しっかり読んで勉強したい、、というのが退職の大きな理由の一つでもあった。


 しかし、そうした本は、基本、面白くも可笑しくもないので、ついつい睡魔に襲われて、なかなか先に進まないのも本当のところなんだけどね。

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