誰のために礼拝するか

 礼拝とは主を賛美するためのものである、だから主のためのものである、というのは勿論、大前提です。

 しかし、実はもう一つ、別の何かがあるのではないか、という気がしきりにするのです。

 それは、その礼拝に招かれている誰かのため・・・ではないか、ということです。

 神様がある人を礼拝にお招きになったとして、教師とその人二人きりでは、人間的な意味では寂しい礼拝という印象になってしまうでしょう。

 まして、神様がいろいろの困難や思い煩いに悩む人を礼拝に招かれたという場合を想定すると、そのような寂しい礼拝に来週も続けて通おうと思ってくれるか、というと、まぁ常識的には難しいだろうな、と思うのです。

 また、もし仮にそういう礼拝を毎週続けなければならない教師の負担を考えると、これもなかなかに厳しいだろうと思いますし、礼拝がだんだんとカウンセリングような何かに変質するかもしれません。

 やっぱりある程度、まとまった人数の人がいて、その人々の後ろに隠れるようにして礼拝に出席するウチに、少しづつ導かれていく、ということのほうが多いように、また、望ましいように思われるのです。

 そのように考えると、会衆の一人一人もそのことを念頭に置きつつ、教師とともに礼拝を作り上げていく、それが望ましい礼拝のあり方なのではないか、という気がするのです。

 では、会衆は具体的に何をすべきか、という話になると特に思い浮かぶものはなくて我ながらガッカリなのですが、そういう認識と祈りをもって礼拝に加わること、それは最低限、必要なことかもしれない。

 そのように考えると、礼拝堂に座ったら私語はしない、おのおの祈りつつ礼拝の始まりを待つ、例えばそういうことも礼拝を教師と会衆一同で作り上げようとする姿勢を大切にしてきた教会の伝統だったのかもしれない、と初めて気がついたりします。


 

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