「聖書通読の恵み」 2017年10月29日 夕礼拝奨励 原稿

聖書箇所

旧約
エレミア書 16 章 16節 見よ、わたしは多くの漁師を遣わして、彼らを釣り上げさせる、と主は言われる。その後、わたしは多くの狩人を遣わして、すべての山、すべての丘、岩の裂け目から、彼らを狩り出させる。

新約 
コロサイの信徒への手紙 1 章 24節 今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています。


1 前振り~過去の聖書通読について
 8月にはH兄とK兄が奨励をなさいました。
 また、9月にはK姉が奨励をなさいました。
 いずれも心に響く、感動的な証でしたが、私には、そんな大層なお話は出来そうにありませんので、その点、あらかじめご勘弁いただきたいと思います。
 さて、私は「聖書通読の恵み」ということでお話をしたいと思います。
 実は、私は今年の3月末で、いささか思うところがあって33年勤務した職場を退職しましたが、退職にあたっては、これまで再読したいと思いながら果たせなかった沢山の本を読み返したいと思っていました。
 そして、それらの沢山の本のなかでも最初に手に取った本は当然のごとく聖書で、私にとっては3回目の聖書通読、4月1日から6月30日までかかりました。
 私たちの教会には、いままでに何回、聖書通読をしたか分からないわよ~~という方もいらして、私のようにやっと3回目というのは誠にお恥ずかしい限りであり、しかも、正直言うと、読みながらいつの間にか寝落ちしていたと言うことも、何回もあったので、ますます皆さんにお話しするにはふさわしくないと、自分でも分かっているつもりです。
 しかし、わずか3回目であっても聖書通読と通じて、思うところ、得るところが沢山ありましたので、ぜひこの機会にそのことをご報告申し上げ、その恵みを分かち合いたいという趣旨でお話しいたします。
 何卒、ご辛抱とお付き合いをお願いします。


2 今回の通読の違い
①スマホの便利さ
 さて、今回、聖書通読をして一番、身にしみて痛感したのは、非常につまらないことではあるのですが、やっぱりスマホの便利さ、ということでした。
 聖書を読むと、沢山の地名や王様などの名前が出てきますが、今までのような通勤電車の中での通読では、疑問に思ったことを一つ一つ確認することは出来ませんでした。
 勿論、その都度メモっておいて、家でネットを調べたり、日曜日に教会で聖書辞典を引けばいいわけですが、正直、その都度都度リアルタイムに調べると言うことは出来ないし、そもそも聖書辞典があると言うこと自体、その頃は知りませんでした。
 ところが、今はポケットからスマホを取り出して、パッパッとネットを検索すると、詳しい解説や地図を簡単に見ることが出来る時代になっていて、本当に便利で大助かりでした。
 ちなみに、後から気がついて調べたのですが、スマホのアプリで聖書辞典もあるので、それをダウンロードして活用する手もあったようで、次回の通読の時にはやってみたいと思ってます。
 いずれにしても、聖書に限ったことではないですが、本を読んでいて疑問に感じたことをリアルタイムで調べて、一定の疑問解消が図られるというのは、その本の理解を深める上で非常に効果的だと、今回は本当に実感しました。

②傍線を引いた聖句の整理
 また、今回の聖書通読では、積極的に傍線を引いて読むことにしました。
 勿論、ドブネズミルックのサラーリマンでしたから、これまでの聖書通読でも、その気になればパッと背広のポケットからペンを取り出して傍線を引くことは出来たのですが、子供の頃から、書物にみだりに線を引いたり、ページの端を折ったりしてはいけないと、しつけられたので、あまり積極的に傍線を引く気が起こらなかったのです。
 しかし、この聖書も購入から18年たって、実はすでにあちこちに書き込みをしちゃってありますので、今回は遠慮なく線を引きながら読み進めることにしました。
具体的には、旧約聖書の並行箇所を発見したときや、これまで以上にぐっと心に来るような聖句に出会ったことときなどに、眠気覚ましの効果も期待しつつ、ドンドン線を引く、ということにしました。
 結局、最後まで読み終わった後にパラパラめくってみるとと、線を引いたところが沢山、ありましたので、それをまとめてみることもやってみました。
 具体的にいうと、線を引いた聖句を日本聖書協会のサイトで検索しては表示させ、エクセルにどんどんコピペして、最終的は107行、つまり107の聖句をコピペしました。
 それらをPDFに変換して、スマホに転送して、実はこのスマホにそのデータが入っています。
 そんな暇なことをやった理由の一つは、例えば教会学校の分級の時に子供たちと話していて、え~~と確か、こんな聖句がどこかにあったよなぁ、というときにパッと参照できるようにしようという魂胆だったのですが、今までのところ残念ながら活用の機会は巡ってきていません。
 ただ、10月9日に、教区の伝道委員会主催の講演会に行った時に、講師の先生が引用された聖句がこのPDFの中にあって、その場でパッと、引用箇所を確認できましたので、まぁ、使えるかな、とやや自己満足したところです。


3 発見した聖句を二つ
 では、その107の聖句はどんなものだったか、ということで、それを一つ一つ申し上げても良いんですが、そんな時間は当然、ありませんので、その中で二つ、特に心に響いたものを先ほど、司会者の方に読んでいただきました。
 一つは、エレミア書 16 章 16節の聖句で「見よ、わたしは多くの漁師を遣わして、彼らを釣り上げさせる、と主は言われる。」というものでした。
私から解き明かしをすることは出来ませんが、この聖句を聞いて、多くの方はイエス様がペトロたちを弟子にするときに「人間をとる漁師にしよう」と声を掛けたことを思い起こされると思います。
 勿論、こんな関連性は聖書辞典を脇に置いて聖書を読めば、簡単に知ることが出来るようなレベルのことかもしれません。
 しかし、聖書通読を通して、イエス様のお言葉と預言者エレミアの言葉が響き合っていることを、自ら発見できたことは大きな喜びでした。
 そして、この二つの言葉が時と場所は異なっても、いずれもが神様がイエス様とエレミアの口にお与えになったということに思い当たって、深い感動を覚えました。
 もう一つの聖句は、コロサイの信徒への手紙 1 章 24節で、「今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています」という聖句です。
 先ほど、教区伝道委員会主催の講演会の先生が引用された聖句が自分のPDFの中にあって、嬉しくなったという話をしましたが、それがこの聖句でした。
 「キリストの苦しみに欠けたところ」があると言う言葉がまず、私にとっては驚きでした。
 一体どんな部分をさしてパウロは「欠けたところ」と言ったのだろうか、そもそもそんなところが存在するのだろうか、私には分かりませんが、しかし、非常に心引かれるもののある言葉でした。
 しかも、前後をよく読むと、パウロがその欠けたところを満たすために、キリストのために自ら進んで苦しんでいる、と言っていることも不思議な思いをするとともに、やはり、心打たれる思いでした。
 勿論、この聖句についても私が解き明かしを出来るものではありませんが、味わいと恵みにあふれた聖句であるという感動は今も変わりません。
 ちなみに申し上げるならば、今回の聖書通読のもう一つの特徴は、今まで余り心に届かなかった書簡の部分に沢山の傍線がついた、つまり、心引かれたということでした。
 なぜ、そうなったのか分かりませんが、そんな風に聖書を物差しにして自分の変化を発見できることも聖書通読の恵みかもしれません。

4 聖書とはどういう書物か
 以上、今回の聖書通読によって与えられた恵みについて、細かいことも含めて何点か申し上げましたが、最後に聖書という書物との向き合い方について、今回、思ったことを申し上げます。
 これまで教会学校の説教で子供たちに言っていたのは、聖書の至る所に永遠の命に至る泉が湧いているということです。
 私たちは聖書を読むことによって、その泉を発見し、その恵みに預かることが出来るのだから、一緒に丁寧に読んでいきましょう、と中高生に常々、話しかけてきました。
 今回の聖書通読でもその思いは全く変わりませんが、もう一つ学んだことは、旧新約聖書は神様と人間の対話の「歴史」を綴った壮大な書物だと言うことです。
 神様の呼びかけがあり、それに人間がどう答えたか、逆に人間の呼びかけに神様がどうお答えになったか、例えばそういう「歴史」ということです。
 あるいは、神様に従おうとしても出来ない人間や、むしろ神様に背を向けて歩む人間に、神様はどう向き合って下さったか、という歴史でもあると思います。
 つまり、神様と人間の間の様々な、かつ一方的なものではなく、常に相互的なコール・アンド・レスポンスの歴史が記録されている書物が聖書である、と思いました。
 そして、最も大切なことは、コール・アンド・レスポンスが繰り返し、繰り返し行われていると言うことです。
 そして、言うまでもないことですが、その背景には、すべての人が神様の救いに預かるまで神様は絶対に諦めない、一人もお見捨てにならないという神様の強い意志があるということであり、
 その歴史の積み重ねの最後の段階で、神様が人の子としてイエス様を送って下さった。
 神様自身がおいでになるのでもなく、また、天使のような超自然的な存在を送り込むのでもなく、人の子として私たちと同じよう飢えや痛みに苦しみ、様々な誘惑の前に身を震わせる、そのような私たちの弱さを共有できるイエス様を送って下さった。
 そしてその結果、どんな罪人でも必ず神様の救いに預かることが出来るようになさった神様の業が実現したという歴史的な事実を私たちに伝え、証している書物が聖書である、ということを今回の聖書通読では、より深く実感することが出来ました。

 私のお話は以上ですが、聖書通読については、かねてから小宮山先生が皆さんにお奨めしているところでもあります。
 また、古来、読書百遍意自ずから通ず、ということもあります。
 今、私自身の経験からも申し上げたように、皆さんにも必ずや得るところは大だと思いますので、
 肩肘張らず、無理をせず、
 時間をたっぷりかけて、
 途中で挫折したって何回でも挑戦できるんだから、
 というくらいの気楽な気持で挑戦していただきたいと最後に、強くお奨めして私からの奨励を閉じたいと思います。

 祈ります。

 天の国の恵み深い神様。
 今日は皆さんに私のつたない経験を通して主の恵みを分かち合うひとときが与えられたことを感謝いたします。
 どうか私たちの教会に集う私たちが、機会があるたびに進んで主の恵みの分かち合い、証をし、その声が地域に響き渡るようにして下さい。
 私たちを主の栄光を表すために用いて下さい。
 ここに集う私たちの今週の働きが主によって導かれ、支えられますように。
 この願いと祈り、尊き御子イエス様の御名によってお献げします。

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